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「それでも派兵は当たり前」湾岸戦争参戦者は語る

「それでも派兵は当たり前」湾岸戦争参戦者は語る

Posted March. 25, 2003 22:44,   

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李載基(イ・ジェギ、55)予備役准将と辛淑鎬(シン・スクホ、50、女、看護生徒6期)大佐は、現在のイラク戦について、まるで自分のことのように関心を持っている。1991年の湾岸戦争当時、クウェートに派兵されて直接戦争を経験した当事者だからだ。

李さんは、91年2月、空軍輸送団長(当時大佐)としてクウェートに派兵された。彼は、「12年の歳月が経った今も、クウェート空港に降りた時を覚えている」と話した。イラク軍が撤収の時、クウェートの油井に火を付けてできた真っ黒な煙のため、昼間なのに真夜中のように真っ暗だった光景。そして数十の油井から立ち上がった63ビルの高さほどの火柱が「地獄」のような光景を作り出していた。

「イラク軍は、撤収の時、クウェートの全ての飛行機と自動車に火をつけ、ひいてはホテルに向けて大砲を打ちました。その光景を目撃してから、人類共同の資源を破壊し、隣国を侵略した独裁者を許してはいけないという考えを持つようになりました」

李さんが導いた空軍輸送団は、連合軍の各種装備、兵力、労力などをC130輸送機でクウェートまで運ぶ任務を引き受けた。2ヵ月間ほとんど毎日、午前9時から翌日の午前4時頃まで夜通しで任務を果たし、連合軍関係者は感嘆したりしていた。

97年、准将として除隊した後、情報通信会社に勤め、現在は外国語の塾をオープンする準備を進めている彼は、湾岸戦争の経験を通じて「世界」を理解するようになったと話す。彼は、「戦争を反対する人々の立場を理解します。しかし、国際社会でともに生きていくためには、現実的に多くの点を考慮しなければなりません」と派兵の当為性を強調した。

陸軍看護兵課長の辛淑鎬大佐は、91年1月30日から4月7日まで、国軍医療支援団所属(当時中佐)としてサウジアラビアのアル・ルアリア病院で医療活動を展開していた。クウェートとイラクの国境で負傷した軍人や民間人を治療することが任務だった。しかし、1日10回ずつ、イラクの化学弾への空襲警報が鳴るため、防毒マスクを付けて治療するのが日常茶飯事だった。

最前線に初めて到着した日に大規模な戦傷者が発生して、血まみれになった70人余りの負傷者が運び込まれ、わめき声と悲鳴が聞こえる阿鼻叫喚を、彼女は忘れられないと話した。

「患者を診ると、理念と名分を考える余裕がなかったんです。まずは命を助けなければならないという考えだけでした」。当時、彼女が面倒を見た患者の中には、イラク人もかなり含まれていた。「生命を助けること」が医療支援団の任務なので、敵と味方を区分しなかった。彼女は派兵が決まったら、医療活動は1日でも早く繰り広げた方がよいと話している。

2人は派兵については同じことを言っていた。「国から呼ばれれば、軍人は命令に従って任務を全うするもの。軍人にはそれが栄光である」



金善宇  sublime@donga.com podragon@donga.com