盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が、マスコミをなぜ「統制も検証も受けない権力」と言ったのだろうか。もし選挙のような政治的統制や検証を想定して言った言葉なら、前提に誤りがある。民主主義と市場経済のもとで、マスコミに対する統制と検証は、当然として読者の役割である。読者が受け入れないマスコミは、自然淘汰される。そこに政治権力が割り込む隙はなく、またあってもいけない。
マスコミに権力の誤・濫用を監視する役割を与えたことは、法と制度以前に、近代市民社会以降確立された民主的理念と原則である。したがって言論の自由は、すなわち自由民主的な伝統性に直結する。そのような意味で、盧大統領が「(権力と言論は)それぞれ自分の道を進まなければならない」と言った言葉は当たっている。互いに緊張関係を維持しなければならないという言葉もしかりである。それが今後の権力と言論の関係の定立の出発点でもある。
しかし相互に誤解があっては、建設的な緊張関係とはいえない。理解の幅を広げる努力なしに、先入観や偏見を持って敵視することは、国家的混乱と浪費をもたらすだけだ。緊張はよいが憎悪が介入すれば、誤りを犯すことになる。
盧大統領が「悪いマスコミ環境」や「マスコミの嫉妬と迫害」を言及したことにも同意できない。現政権が早く定着するように、マスコミもそれなりに報道と論評に慎重を期したにもかかわらず、そのような認識では、いずれのためにもならない。正当な牽制と批判にまで、好き嫌いや有利不利を計算して感情的な見方で見るのは遺憾である。記者を大統領秘書と会って「酒を飲んでたわ言を交わす」対象に一般化して言うのは、大変な誤りだ。
政権は、「悪いマスコミ環境」を招いた側面はないか、謙虚に考える必要がある。これまで韓国憲政史において、迫害の主体はマスコミではなく政権であったことを忘れてはいけない。それがマスコミが常に権力よりも緊張するしかない理由である。政権が本当にマスコミとの健全な緊張関係を望むなら、マスコミに対する制約は必要最小限に止めなければならない。