議員の長官叱咤、咎めることだけではない。
国会が議員と長官たちの間の攻防で熱くなっている。一部の常任委員会では嘲弄とやじ性の発言まで出て、眉をひそめる場面があった。こういう時、相対的にもっと多くの非難を浴びるのは長官たちより議員たちだった。攻撃をする国会議員は強者で、返事に途方に暮れなければならない長官は弱者のように映るため、世論がそれとなく政府に軍配をあげることが多い。
しかし、議員たちの長官叱咤を一方的に咎めることはできない。長官たちが説明する政策内容が国民から共感を得ることができないときや、人格的に修養が不十分で答弁の態度が不真面目なときに、これを指摘するのは当たり前のことだ。議員が個人としてではなく国民の代表として、突き詰めることは突き止め、咎めることは咎めなければならない。それがまさに国会の存在理由でもある。
例えば、李滄東(イ・チャンドン)文化観光部長官の場合、政府の新聞市場介入の検討など同長官が打ち出した言論政策は問題が少なくない。国民の立場を考えなければならないことが一つや二つではない。議員たちの叱責にしばしば「黙って何にも答えない」姿勢を示す金斗官(キム・ドゥグァン)行政自治部長官の場合も同様だ。金長官は国会ではまともに対応せず、後で放送に出て議員たちを責めたが、これは国民と国会軽視という非難を浴びて当然だ。
これに対して、「私が知らなかったことを常任委に来て分かるようになった。国会がどうして重要か分かるようになった」というふうに丁寧に答弁した康錦實(カン・グムシル)法務部長官は国会答弁を通じて、それに対する否定的な見方を改めているという評価を受ける。長官として国会に礼儀を守りながら所信を表明すれば大きな声の出る理由がない。
もちろん、議員たちの質問姿勢も改善した方が良い。一人一人が憲法機関である議員たちの言葉には、品位と重さがなければならない。しかしこれとは別途に、議員たちがそうした発言をするようになったことに、政府や長官自らが原因を提供た側面はないのか振り返らなければならない。 議員たちの叱咤に部分的に耳が痛い部分があっても、長官たちは常にそれが「国民の声」であることを忘れてはならない。