第2建国汎国民推進委員会のホームページの漫画は苦笑を誘う。
「私、常任委員長です。殴られる覚悟はできています」
「第2建国というなら第3建国もあるんですか。政権が変わるたびに作る政府の団体じゃないんですか」
「私のところは、民間が主導して官が支援する団体です」
「一体これまでしてきたことは何ですか」
常任委員長は質問が続く間ずっと殴られる。座り込んでうめき声を出し、全身に包帯が巻かれて病院に搬送される場面で漫画は終わる。解体の危機に直面した第2建国委員会のつたない歴程と予期された運命がそのまま縮約されていて興味深い。
◆官が提唱した運動を推進するための団体の盛衰ほど、権力の無常さを実感させるものはない。金泳三(キム・ヨンサム、YS)政権の世界化推進委員会の場合も、振り返れば実に空しい。94年末、オーストラリアに向かう大統領特別機の中でYSが参謀たちに「明朝の記者懇話会で何を言えばいいか」と問い、突然飛び出したのが「世界化」という漠然とした概念だった。それに肉付けしてそれらしく飾るために、各省庁が大騷ぎしたことは言うまでもない。にわか作りの世界化推進委は、それでも司法改革推進のようなしっかりとした足跡を残したものの、政権交代とともに例にもれず姿を消した。
◆朴正煕(パク・チョンヒ)政権の際、農村再建運動として始まったセマウル運動だけは、30年余りの間命脈を保っている。またセマウル運動中央会は政府の支援を受け、役所にはセマウルの旗を掲げた所が多い。全国的なネットワークを形成したのが、力強い生命力の要因に数えられる。政府樹立50周年の98年、光復節(クァンボクチョル、日本の植民地支配からの解放記念日)に金大中(キム・デジュン、DJ)大統領が提案した第2建国運動も、セマウル運動をモデルにしたものだった。当初は、世界化推進委のような諮問機構を構想したが、全国的な国民運動組職に発展させようとしたのが第2建国委の悲運の始まりだった。開始前から野党の強い反発と世論の激しい批判を受けた第2建国委は、その後どっちつかずの状態で4年半を費やした。一時、第2建国委の委員も官とコネを作ることができると、地方では地位争いが見ものだったが。
◆セマウル運動が盛んだった頃、運動圏の学生の農村奉仕活動(農活)も最も活発だった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の改革核心勢力である70、80年代の運動圏出身もその世代だ。また国際化と世界化を区別しようとしたYS政権は、すぐに世界化の波に乗り、金融危機に見舞われた。そして、DJが提示した第2建国運動の3大方向のうちの第一が「参加」であったが、参加政府を標榜した盧大統領は、第2建国運動を「失敗した運動」と規定した。5年後にはまたどのような歴史の皮肉が待っているのだろうか…。
林彩清(イム・チェチョン)論説委員 cclim@donga.com