1930年代に入って軍縮の約束を破り侵略の野心をあらわにしたナチス・ドイツを、英国のチェンバレン首相は平和ジェスチャーでなだめようとした。38年のミュンヘン会談でチェコスロバキア併合に目をつぶる代価としてヒットラーから平和の約束を取り付けたチェンバレンは、英国国民に「もはや欧州から戦雲は消えた」と豪語した。しかし数年後、ドイツはフランスを奇襲攻撃し、わずか1ヵ月でパリを包囲した。この時、第1次世界大戦の国民的英雄ペタン元帥がヒットラーと手を組む。フランスを南と北に分け、銃一発撃つこともなくパリを明け渡したのだ。その代わりに南部ヴィシーに親独政権をたて、自ら大統領になった。ペタンの副官だったドゴール将軍は、決死の抗戦を叫んでロンドンに亡命した。
◆終戦後、ドゴールはペタンに亡命を勧告した。上官が法廷に立つことを避けるためだ。しかし、ペタンはこれをきっぱりと拒否した。自分がヒットラーと手を組んだことで、フランス南部がドイツ軍に踏みにじられるのを阻止したと自負したからだ。しかし、ペタンは国家反逆罪で死刑宣告を受けた。国家の指導者でありながら敵の前で国民の安保意識を乱したというのである。分裂した国論の中で、当時多くのフランス知識人がヒットラーと協力してレジスタンスを弾圧した。もう一つの罪名は、敵を経済的に助けたことだ。ペタンの指示に従って、フランス企業はドイツのための軍需品を生産し、多くのフランス青年がドイツの軍需工場に送られた。
◆特別検事(特検)の捜査で次々に真実が明るみになっている北朝鮮への秘密送金事件を見ると、ふとフランスの汚辱の過去が思われる。前任の大統領は、戦争を阻止するための不可欠の統治行為だという。ペタンも終戦後、自分の親独行為を統治行為として合理化させようとした。しかし、北朝鮮の核の脅威が現実のものになりつつあり、北朝鮮への送金の不法性が一つずつ明るみになっている今、ノーベル平和賞を受賞した大統領の抗言は、国民の前に説得力を失いつつある。
◆歴史を振り返ると、隣国が脅迫的な軍事力をもつ国家の指導者の悩みはまったく同じである。どのようにすれば戦争を避けることができるかということだ。これにはいろいろな方法があるが、その中の一つが平和ジェスチャーである。相手国が合理的に行動するなら、この方法は成功する。しかし、ヒットラーを信じて協力したチェンバレンとペタンは完全に失敗した。国民を飢餓状態に追いこみながらも核を保持しようとする北朝鮮に対して平和的努力を試みた前任大統領の対北送金はどのように評価されるか。最終的には国民と歴史が判断するだろう。ともすると、特検よりも恐ろしいのは、歴史の目なのかもしれない。
安世永(アン・セヨン)客員論説委員(西江大学教授)syahn@ccs.sogang.ac.kr