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[オピニオン]平壌から来た応援団

Posted August. 24, 2003 22:01,   

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国民党の激しい攻撃で内陸奥地に追われた中国共産党は、大長征を終えた時、ほとんど壊滅直前だった。しかし、12・9運動と西安事件という天佑神助の機会が与えられた。まず1935年12月、北京の大学生たちが街に出た。共産党と国民党に別れて争わずに、ともに抗日闘争をしようというのだ。さらに張学良が、抗日督戦のため西安を訪れた蒋介石を監禁して、国共内戦の終息を求めた。当時彼らが掲げた大義名分は、もっともらしかった。民族和解をして、外敵をまず追い出そうというのだ。しかし、これを機に毛沢東が起死回生して、形勢は逆戦、米国が手を切った中国大陸は赤く染まった。これら事件の背後には、老獪な共産党の宣撫工作があった。

◆30年の歳月が流れ、インドシナで同様のことが起こった。ベトコン軍が時々刻々と圧迫して来るが、サイゴンの若者は反戦反米のスローガンを叫び、街を埋めた。このような混乱は、ただでさえ手を切りたがっていたワシントンの世論を米軍の撤収に向けた。共産化後、ベトコン宣伝組職は本色を現わし、何も知らずに街に出た純粋な(!)進歩勢力は、思想改造キャンプに送られた。彼らの多くはすでに赤く染まり、収容所に行く必要がなかったのであるが。

◆1990年代に入り、フィリピンで米軍撤収のスローガンが叫ばれた。通例そうであるように、誤った理念で武装した若者が声を上げる一方、保守は沈黙するため、外から見ればフィリピン国民すべてが米軍撤収を願うかのように見えた。さらに、スビク湾の米軍基地周辺の商人まで力を合わせて立ち上がった。米軍が去れば、スビク湾基地に外国の投資を誘致し、すばらしい複合団地を作るというのだ。しかし結果は無惨だった。米軍撤収後、安保が不安定になった国に投資する外国企業はなかった。

◆3国のつらい経験は、思想戦に長けた共産国家と対峙している韓国に理念的緩みがもたらす莫大な対価を警告している。北朝鮮の核の脅威の下、進歩と保守で対立してきたが、もはや多くの国民が平壌(ピョンヤン)から来た応援団に歓呼している。応援団の美貌に魅かれた韓国の若者が、北朝鮮に対する漠然とした幻想を持つのではないか心配だ。よく訓練された美しい北朝鮮女性の応援団を見る度に、苦しい大長征をしながらも、すぐれた政治広報で農民の心を捕らえ、後に勝利の基礎を築いた中国共産党の宣撫工作団が思い出される。太陽政策で北朝鮮を「溶かす」と言ったが、逆に韓国が北朝鮮のすぐれた思想戦術に溶かされるのではなかろうか。

アン・セヨン客員論説委員(西江大学教授)syahn@ccs.seogang.ac.kr

方炯南(バン・ヒョンナム)論説委員hnbhang@donga.com