年末になると、マスコミ各社は大物を探しまわる。送年と新年の対談候補を物色するのだ。だが、適当な大物探しは思ったほど簡単ではない。知性があれば現実感覚が足りなく、経綸があれば斬新さがなく、批判精神があれば世の中の回りめぐる複雑な理には疎い場合が多いからだ。そうなると、金壽煥(キム・スファン)枢機卿、金ジュンヨプ元高麗(コリョ)大学総長、法頂(ボップチョン)和尚のような人が無難な候補として挙がる。だが、この三人は、インタビューを固辞することで有名だ。今はなき曹溪宗性徹(ソンチョル)宗正は生前、「私に親見したければ3000拝をしてからこい」と言って記者を困らせた。
◆「長幼之序」の伝統が面々と受け継がれてきた韓国で、このように尊敬される大物を探すのが困難になった理由は何だろうか。まず、韓国の現代史に、屈折と挫折の多かったことが挙げられる。特に過去の独裁政権は、それなりに名分を維持してきた各界の人材を引きづり出しては政権の正統性確保に活用したりした。このために、各分野で相当の業績を残していながらも御用識者だと批判され、正当な評価を受けられないでいるケースが少なくない。韓国社会があまりにも完璧な大物を期待しているという見解もある。イエスや釈迦も韓国社会で活動していれば、大物扱いは難しかっただろうという話が出るほどだ。
◆もちろん年齢とポストが凡人を大物にさせるわけではない。歳を取ったからといって、みんなが大物にはなりえないし、ポストが高いからといって人格と実力がそれに比例して高いといえるものでもない。自分の年齢に合った行動と配慮のできない老人が多く、高官だといっても人のなりと言葉使いは市井の輩以下の者も多くいる。詩人であり随筆家の皮千得(ピ・チョンドク)は今年93歳だが、子供のように純粋な反面、近頃人気の386世代(現在30代で、80年代に大学生生活を送った60年代生まれの人たち)の中にはすでに老獪な「若年寄り」が少なくない。
◆盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が一昨日、大統領府での5者会談で、野党ハンナラ党の崔秉烈(チェ・ビョンリョル)代表から「大統領は一国の大物だ。大物のように行動すべきだ」と言われると、「いつ大物扱いしてくれましたか」と受け答えたという。どちらが正しいかどうかはさて置いて、聞くに堪えない話である。「大物らしい行動」も「大物扱い」も言葉でできるものではない。身につかなければならず、心からそうしたいと思わなければならない。それを知らなければ行動も扱いも期待できるわけがない。盧大統領が野党だけでなく、全国民から「一国の大物」扱いを受けて、野党も大統領から「巨大野党」扱いを受ける政治に立ち返ることを期待したい。
吳明哲(オ・ミョンチョル)論説委員 oscar@donga.com