現政権の経済政策の中心人物と目されていた李廷雨(イ・ヨンウ)大統領政策室長の「2線退陣」をきっかけに、歴代政権の最初の経済政策責任者らが夢見た「ばら色の理想」と「厳しい現実」が再び注目を集めている。
特に、金泳三(キム・ヨンサム、YS)政権後、大統領府で大統領を補佐した学者出身の初代経済政策の首長は、いずれも「改革」を旗印に掲げたが、これといった実績を残すことができずに、正統経済官僚出身らに席を譲った。
このため、就任初期における大統領の意欲過剰と人事システムの不在が繰り返されているという指摘も出てきている。
▲繰り返される歴史〓金泳三元大統領は1993年2月初め、大統領経済首席秘書官に当時ソウル大学経済学科の朴在潤(パク・ジェユン)教授を任命した。朴教授は「YSの経済家庭教師」として知られた人物で、金元大統領の候補時代から選挙キャンプに参加した。
朴教授が首席秘書官職に就くやいなや、掲げた掛け声は「新経済100日計画」。主な内容は△公務員給与の凍結△工産品価格の凍結△予算減らし額を財源にした製造業支援などだ。
しかし、ここでの「凍結」は、事実上5共和国が強圧的に実施した物価安定対策と軌を一にするもので、市場論理とは距離の離れたものだった。また経済官僚組職とも深刻な摩擦をもたらした。
YS政権初期、経済分野を牛耳ったという評価を受けた朴元首席の独走は、94年経済副総理を夢見た朴元首席が通商産業部長官に移り、「世界化」が新たに脚光を浴びることにより、事実上幕を閉じる。朴元首席の空席は経済企画院で長年の経験を持つ正統経済官僚出身である韓利憲(ハン・イホン)が引き受けた。
金大中(キム・デジュン、DJ)政権でも学者出身である金泰東(キム・テドン)成均館(ソン・ギュングァン)大学教授が初の大統領経済首席秘書官になった。金教授はいわゆる「DJノミックスの産室」である「中経会」のリーダー格で、成長よりは分配を重視した。
金教授はやはり教授出身である金融監督委員会の尹源培(ユン・ウォンベ)副委員長と韓国開発研究院(KDI)の李鎭淳(イ・ジンスン)院長など中経会メンバーたちと一緒に経済分野の要職を掌握した後「経済改革」を主張した。
しかし、大手企業と高位経済官僚に対する強い攻撃など、舌禍と官僚組職との摩擦などが重なり、3ヵ月で大統領政策企画首席秘書官に移された。残りの中経会メンバーたちもいろいろな理由で99年以降に辞任した。
李廷雨大統領政策室長も学者出身だ。経済省庁の公務員たちは朴元首席や金元首席に比べると、「独り善がりと独断」の姿は少なかったと評価する。しかし、明確なビジョンを提示することができなかったのに加え、現実感覚に欠けていた。省庁間の政策調整が充分でなかったという批判が出て、結局「大統領の最側近の経済参謀」から退いた。
▲高い理想、厳しい現実〓経済専門家たちは厳しい現実を直視しない人々の「高潔な理想」が逆説的に韓国経済の足踏みあるいは後退をもたらすと指摘した。
朴元首席は「95年以降の経常収支黒字と3%物価安定」を約束したが、経常収支の赤字累積と物価不安だけをもたらした。さらに経済構造の改革さえ見えなくなり、結果的に通貨危機の直接・間接的な原因になったという分析もある。
金元首席と李廷雨大統領政策室長が重きを置いた「分配論」も、一応経済のパイを大きくするのが急務である韓国の実情では得より損が多かったというのが一般的分析だ。
韓国経済研究院の左承喜(ザ・スンヒ)院長は「彼らは厳しい現実を直視することができなかったロマンチックな理想主義者たちだった」と評価した。
三星(サムスン)経済研究所の張相秀(チャン・サンス)常務は「1960年代なら分からないが、経済構造が高度化して複雑になった状況では、教科書が提示した理想を現実にそのまま適用しようとするのは無理だ」と話した。
高其呈 koh@donga.com