台湾は1988年米国の警告を受け、核兵器開発計画をあきらめたものの、核兵器開発設計図や関連資料を全部保管していると、台湾の中国時報が12日報道した。
中国時報は米国務省の情報幹部を務めたヘリテージ財団研究員の寄稿文を引用してこのように伝えた。この研究員は、「米中央情報局(CIA)の情報によると、台湾では約20年前0.5キログラムのプルトニウムを抽出できる核燃料棒10個が行方不明になっており、今も6基の原子炉からプルトニウムを抽出できる核燃料棒を生産している」と指摘した。
同紙によると、台湾核エネルギー研究所は1969年、小型核兵器の開発に着手してカナダからは4万kWの研究用原子炉を、フランス、ドイツ、米国ではプルトニウム化学実験室や再処理施設など関連設備を購入しており、72年南アフリカ共和国からは100tのウランを買い入れた。
台湾の核兵器開発計画は74年米CIAに知られて、76年に国際原子力機関(IAEA)の査察を受けたが、その時核燃料棒10個が行方不明になった事実が明かにされたという。これを受け、米国が台湾に建設中だった原子力発電所工事を中断すると脅かすと、当時蔣経国総統が、「台湾は核兵器を製造する能力と設備を保有しているが決して作らない」と宣言した。
台湾指導部は87年、極秘裏にプルトニウム再処理作業の再開を指示した。しかし、数週間後、米国留学生出身のCIAスパイ、張憲義(陸軍大領)核エネルギー研究所副所長が数千ページの核兵器開発計画文献を入手して米国へ亡命したため、計画は再び中断された。
当時米国のレーガン政権は翌年1月に特使を派遣して、核兵器開発を凍結しなければ、軍事支援と原発燃料の供給を中断するという最後通牒を送っており、これに対して当時の李登輝総統は結局文書で核開発の中止を約束した。李総統は95年夏、中国が台湾海峡にミサイルを発射すると、「長期的な観点で核兵器開発研究を再開する」ことを明らかにしたものの、3日後これを取り消した。
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