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[オピニオン]甲申換局

Posted February. 01, 2004 23:32,   

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朝鮮王朝時代の中期、粛宗(スクチョン)15年(1689年)の出来事だった。粛宗は、寵愛していた側室の張(チャン)氏(張禧嬪)が王子をもうけると、その子を早々と太子に冊立しようとした。王妃の仁顕(インヒョン)王后に愛情はなく、2人の間に跡継ぎもいなかったからだ。粛宗は、三政丞(朝鮮時代の大臣、領議政、左議政、右議政の3人をいう)と六曹(朝鮮時代の大臣、刑曹、兵曹、禮曹、工曹、戸曹、吏曹の6人をいう)大臣を呼び寄せ、その旨を伝えた。承服できない者は、官職を返上して退くよう脅した。再考をと泣訴した宋時烈(ソン・シヨル、朝鮮時代の文臣)と金寿恒(キム・スハン、朝鮮時代の文臣)は、官職を解かれた。三政丞が一夜にして更迭され、南人(ナムイン、朋党政治から来ており、現在の政党にあたる)政権に替わり、100人あまりの政敵が島流しにされた。己巳(キミ)年に起きたこの事件を「己巳換局(キミ・ファングク)」という。

◆換局とは、御命(王の命令)を不服とする大臣を更迭して政権交代を行うことで、士大夫(サデブ、貴族階級の両班をいう)の干渉を離れ、王権強化の試みで、粛宗の在位中に3度も発生している。庚申(キョンシン、1680)、己巳(キミ、1689)、甲戌(カプスル、1694)換局がそれ。その都度、執権勢力が交代し、権力者らは絞殺と斬首の刑を免れなかった。独裁者の気質を持っていた粛宗は、こうしたショック療法を度々断行している。およそ40年後(1737年)、換局の弊害がピークに達し、英祖(ヨンゾ)は消耗的な党争をなくし、平等な人材の登用と勢力の均衡を取るため、蕩平策(タンピョンチェク、党争を解消するために党派間の政治勢力に均衡を図った不偏不党の政策)を実施した。大規模な赦免とともに、和合の政治を求めたのである。

◆2004年の総選挙まで、あと2ヵ月となった。政局は、いよいよ激しい「政治の季節」へと突入した。公認候補を選ぶ審査過程に非常な関心が注がれ、出馬宣言をした政治家たちが、忙しく動き回っている。総選挙は、国民の意思によって政権勢力を創り出す、合法的な手続きである。言うなれば、王命による、恣意的政権交代とは本質的に異なる「民主的換局」を成す、重大な機会と言えるだろう。

◆総選挙を前に、大物政治家らが次々と逮捕、収監されている。大統領選挙資金、党代表選挙資金の嵐が、腐敗政治の芽を一掃しているのである。この際、政治の構図を完全に替えてもらいたいという、国民の念願を反映しているようでもある。ところがその嵐、あいにくな事に、先の政権の権力者たちと野党に集中しているような印象を与えている。腐敗した政治家なら処罰されて当り前だろうが、懺悔をした後に、和合政治を試みるだけのこともあるという、社会指導層の控え目な勧告は、司正の寒波に埋もれてしまった。今年の甲申(カプシン)年に際して、まさに「甲申換局」が起きようとしているのかも…。

宋虎根(ソン・ホグン)客員論説委員(ソウル大学教授)hknsong@snu.ac.kr