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真っ直ぐ伸びた木々のように…心ものびのびと

真っ直ぐ伸びた木々のように…心ものびのびと

Posted February. 18, 2004 23:15,   

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雪景色の来蘇(ネソ)寺。つい昨日まで想像の中の絵に過ぎなかった、あの雪景色だった。 来蘇寺の400mも続く樅(もみ)の並木道は、そこを通るたび夢に見ていた、あの風景だった。夢と想像が今、眼前に広がっている。

一柱門をくぐると、全長30mものずっしりとした樅の並木道が、目の前に現れる。真夏でも真冬でも、この森の中で空が見えないのは同じこと。鬱蒼とした森は、昼間でも薄暗い。ところが、雪が降った後でこの森を訪ねると、その中に雪が積もっている。小枝の合間を縫っては、そっと降り積もった雪。積雪量は、森の外とさほど変わらない。空を覆いつくすほどの鬱蒼とした森の中には雪も積もらないだろうと思っていたが、いくら樹が生い茂っていようと、降り積もる雪を遮ることはできないのだと思うと、世の中の理に誤りはないということを改めて考えさせられるような気がする。

内辺山(ネビョンサン)の観音峰(クァヌムボン、標高433m)。その麓の奇岩を屏風代わりにして、天女が袖を架けたようにそっと佇む1000年の古刹、来蘇寺。その美しき姿を一目見ようと寺を訪れたものの、一柱門からの樅の森を、何百メートル歩いても堂宇(ダンウ)は見当たらない。ようやく目にしたのが、3〜4段ほどの高さに石を築き上げ、その上に建てられた天王門。四天王像に守られた天王門をくぐると、やっと来蘇寺の威容が目に入った。

堂宇で囲われた寺の境内。全長20mもある、樹齢千年のけや木が出迎える。百済時代(633年)に建立されたというから、年輪ばかりは、けや木も寺に勝てまい。それでも、扶安(ブアン)の地、辺山(ビョンサン)にて、はかなくも過ぎてしまった1000年の歳月の荒波を知る者はこのけや木だけ。その悠久さと堅固さには、頭が下がるばかりだ。

冬の終わりに訪れた来蘇寺。真昼であるにも拘わらず、静寂ばかりが漂う。聞こえるのは、山鳥のさえずりと、風鈴の音だけ。今、木鐸を叩くと、その音が辺山の海にまで届きそうな静けさである。目敏い人は、雪の中でも花を見る。仏堂の障子門に咲いた(花紋様が彫られた)桟である。

主峰のウイサン峰(標高509m)を中心に形成された山岳が、七山(チルサン)の沖に向って突き出た地形、辺山。山と海に恵まれた半島とは言え、その内と外がはっきりと分かれるのもまた、辺山である。山なら山、海なら海、互いに譲れないほどの珍景に、どちらも恵まれているからだ。

寺を後にして、外辺山(ウェビョンサン)の海に向かう。半島の地の果てに広がる辺山の海。その海もまた静まり返っている。果てしなく広がる干潟が、全てを飲み込んでしまったかのように静かだ。荒波にもまれる東海(トンへ)に比べると、ここ辺山の海は、湖のようだ。

辺山の海岸は、山と海、内と外の2つの辺山が出会うところだ。そのためか、海岸線はおびただしいほど複雑な形をしている。その海岸線を走る国道30号線。くねくねと流麗に伸びている。ハンドルを切るたび、違った顔を覗かせる海。潮が引いて干潟が現れると、これまでとはガラっと変った海に様変わり。

辺山半島の中心と言うべき、格浦(ギョッポ)港。防波堤に沿って、黄色い旗が風になびいている。海に突き出た、防波堤の先の燈台にもなびいている。これは蝟島(ウィド)への放射能廃棄物処理場設置に反対する住民たちの気持ちを表している。その防波堤と並んで彩石江(チェソッカン)が聳えている。幾重にも重ねられた書籍の形をした、赤い岩肌。灰白色のコンクリート構造物と対比を成すアンバランスは、自然破壊の至りと言える。

その隣りのオンポ村に向かった。海辺に石を築き上げ、その上に松の木を植えているが、どことなくぎこちなく見える。教員のための施設ということで、名称まで「常緑海水浴場」に替えた。1年のうち1ヵ月しか使えない海水浴場だというのに…。むしろ、その隣りグン港の格浦里(ギョッポリ)のほうが、ずっと親しみが感じられる。

辺山を後にする私に、願いがひとつできた。この懐かしい風景が、いつまでも変わらないでもらいたいという、素朴な願いだ。もう一つ。海と山の、衝突とも言うべき出会いにもかかわらず、互いを抱擁する寛容な自然の辺山で、誰もが幸せになる知恵を得ることができますように…。そうして、この地を訪れる誰もが、その美徳を学ぶことができますように…。



summer@donga.com