『私の名前は赤』1・2
オルハン・パムク作、李ナンア訳
各350ページ・341ページ/9000ウォン/民音(ミンウム)社
パムクは白紙に高度の輪郭をすぐ描いてみせた。「子どもの頃の夢は画家だった」と話した。彼の祖父はトルコの鉄道建設を独占した大金持ちで、父親は建築家だった。母親はオスマン帝国の貴族出身だ。
「父は私に画家と建築家の中間ぐらいの設計士になれと言っていました。それでイスタンブール大学の建築学科に進んだんですが、結局中退して作家の道に入るようになったんですね。私は父の別の面を受け継いだんです。数千冊の本を持っていた父は小説家が夢でした。たまにフランスのパリに飛んでいって、サルトルに会ったりしていましたね」
彼はこれまで10冊の本を書いたが、1998年に発表した『私の名前は赤』が一番の成功だと語る。32カ国語で翻訳されており、現在までプランス語版20万冊、英語版20万冊など70万冊以上が売られている。02年フランスの「最優秀外国文学賞」、03年イタリアの「グリンザネ・カブール賞」、同年アイルランドの「インタ−ナショナル・インパクト・ダブリン文学賞」を受賞した。
パムクは、「いつか作家としての命運をかけて、絵を小説で扱うことに決めていた。その作品が他ならぬ『私の名前は赤』だ」と話した。この小説が国際的に認められるようになったのは何よりも「知的な楽しさ」があるからだ。この作品は推理小説と恋愛小説という二つの精巧な模型ビルを双子のように積み上げることに成功した。
1591年のイスタンブール。アラーの視覚を反映するイスラム伝統の「細密画」が絶対的な画風だったこの都市に、人間中心的なイタリア・ヴェネチアの絵画スタイルが浸透してくると、画家の間では葛藤が生まれる。スルタンの命令に従って秘密裡にヴェネチア・スタイルの絵画集を作った画家の一人が殺害されると、絵画集製作の責任官は12年間もイスタンブールを離れていた自分の甥の「カーラー」を真相を糾明する探偵として呼び入れる。しかし、製作責任官までも殺害されたため、カーラーは自分の昔の恋人でもある製作責任官の娘、セキュレの心を捕らえるためにも、犯人を必ず見つけ出さなければならなくなる。
カーラーはセキュレの顔を忘れることを心配して、「ヴェネチア・スタイルの彼女の肖像画でもあったら良いのに…」と悔恨にうちひしがれる。しかし、カーラーの反対側に立つイスラム細密画の老大家は、荘厳な闇の中で神様が賜った最後の絶対美を迎接するために黄金針で自分の目を突く悲壮な勇断を下す。
エコーの『ローズの名前』を思い浮かばせるこの小説は多様な響きを持っている。イスラム原理主義と世俗主義、世界化と地域主義、西欧文明と東洋文明、神と人間、進歩と保守といった重いテーマを抱えている。
パムクは、「この小説を書こうと思って取材のために米国・ニューヨークのメトロポリタン博物館を訪れたことがあります。イスラム細密画を見ている観覧客は博物館で道に迷った日本人ぐらいであるのに対して、西ヨーロッパ美術展示館は足の踏み場がないぐらい混んでいました。悲しくなりましたね。」
しかし、彼を悲しませたイスラム細密画は『私の名前は赤』によって世界的に知られている。作品を発表して6年目を迎えているが、彼の執筆室の机の上にはこの作品と関係のあるカナダ・テレビとのインタビュー、ウクライナ、スロベニア、英国、米国でのスケジュールなどがぎっしり書かれてある。
彼は、「この30年間もっぱらペンでのみ(小説を)書いてきた。大変下手な字なので、たった一人の編集者のみ私の字が読み取れてタイピングしてくれる」と話した。
權基太 kkt@donga.com