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[オピニオン]「ブラウン裁判」50周年

[オピニオン]「ブラウン裁判」50周年

Posted May. 19, 2004 22:23,   

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今は想像しがたいことだが、数十年前まで米国では白人は白人専用の食堂を、黒人は黒人専用の食堂を利用した。駅の待合室も別々だった。建物のトイレには男女の区別より先に、白黒(Colored,white)の区別表示がより大きく貼ってあった。もちろん黒人専用の施設はよくなかった。1951年、カンザス州トペカのリンダ・ブラウンは、線路を渡って1.6km離れた黒人小学校の3年に通っていた。家から7ブロック離れた白人学校に移りたかったが、校長から断られてしまった。

◆リンダの父親オリバー・ブラウンは、有色人種の権益団体であるNAACPの助けを借りて訴訟を提起した。3年間にわたる「ブラウン対トペカ教育委員会」の裁判で、米連邦最高裁判所は「公立学校の人種分離は違憲」との判決を言い渡した。1954年5月17日だった。「分離すれど平等」な公共施設を認めていた、58年前の最高裁の決定を覆す判決だった。数日前この判決から50周年を迎えて、米国人は記念イベントを催した。判決の日を記念日とした米国人の姿から、法に対する尊敬の気持ちを伺うことができる。

◆当時、人種差別に対する抵抗は学校に続いて、バス、食堂などに広まった。1955年12月、アラバマ州モンゴメリーで42歳の黒人女性ローザ・パークスは、バスに乗って白人用の前の席に座った。後ろの黒人の席に戻れという運転士の促しを断った彼女は、留置所に入れられた。これに怒りを感じた黒人はバスに乗ることをボイコットし、この過程でマーティン・ルーサー・キング牧師が黒人民権運動をリードするようになる。1960年、ノースカロライナ州グリーンズバラで黒人大学生が白人専用の食堂の利用を要求して、座り込みデモを行った。

◆こうした一連の民権運動を反映して、人種、肌の色、宗教、国籍による差別を撤廃する内容の民権法が制定されたのは1964年のことだった。差別の現場であったトペカの黒人専用のモンロー小学校は、国立公園になった。警察がパークス夫人をバスから引き摺り下ろした道には「ローザ・パークス・アベニュー」という名が付けられた。もはや差別は解消されたのだろうか。教育だけ取ってみても、貧しい黒人家庭の子供たちの教育に政府があまり金を使わない「カネ問題」が深刻だと、米国マスコミは指摘した。未だに黒人学生が学校で平等な機会に浴していないということだ。

洪権憙(ホン・グォンヒ)ニューヨーク特派員 konihong@donga.com