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[オピニオン]価値論争

Posted June. 13, 2004 23:18,   

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盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の弾劾決議案に関連する放送が公正ではなかったという韓国言論学会の研究報告書が発表されたことを受けて、放送各社の労組や民主言論運動市民連合(民言連)、放送委員会などが報告書の公正性を問題視している。言論学者まで加わり、公正性を巡る論議は収まる気配がない。新聞は言論学会の報告書を取り上げ、放送は報告書の内容を反ばくする論理を大々的に報じた。学会側は各種学問的な枠組みを使って詳細に分析を行ったと主張しているのが、批判する側はそのような算術的な公正性は意味がないと一喝する。

◆タマネギの皮を剥くような論争に終りが見えない理由は、論理を構成する概念の定義が互いに異なるためだ。「公正性」の定義が互いに異なるため、いくら論争を続けても空回りする。アリストテレスは、論争当事者は相互の概念の定義から定めなければならないと説く。主に、正・不正や善・悪、美・醜など「価値論争」の第一段階は、このような論争対象への定義を討論することから始まる。

◆社会が複雑化し、論争の技術も発達して、18世紀頃から修辞学者たちは「政策論争」のテクニックを発明した。古代ギリシア人は静的な価値をめぐる論争を楽しんだが、現代人にそれほどの暇はない。方向性が明らかな政策をめぐり、具体的な合意を得るために討論することが多くなった。しかし、実際の政策論争も、まずは価値論争から始まる。政策論争においても、概念の定義がそれぞれ異なった場合、論議は一歩も前進しない。

◆弾劾報道の公正性の是非は、新聞と放送が対立する構図で進んでいるが、当初その論争はマスコミの領域を越えるものだった。学問的に究明するといって解決する事案ではなかった。論議のレベルが概念の定義で空回りする、韓国社会の2つの価値観が対立する論争なのだ。両者が和解できないのは、初めから互いの定規に引かれた目盛が異なるためだ。その昔、秦の始皇帝も度量衡を統一することで、国家統合の基礎を築こうとした。マスコミと政府、新聞と放送、メジャーとマイナーが、「公正性」に対して等しい定規を持つことから、マスコミ改革は始まらなければならない。

朴ソンヒ客員論説委員(梨花女子大学教授・言論学)shpark1@ewha.ac.kr