目は悲しみの泉、口は喜びの泉だ。だから、悲しいときに涙が出て、嬉しいときに笑いが出る。心臓が愛の泉ということ対しても、東西古今の考えはあまり違わないだろう。それでは猜忌心の泉はどこだろうか。英語では「猜忌心で黄色くなった」か「緑になった」という表現がある。昔の西洋人は、人体に現われた黄色や緑を胆石症の症状と信じていたという。彼らにとって、猜忌心の泉は胆嚢だったわけだ。彼らと違い、韓国人の猜忌心はひねくれている。「いとこが田を買えばお腹が痛い」や「ひもじいことは堪えても猜忌心は堪えることができない」という言葉がそれだ。
◆在韓米商工会議所のジェフリー・ジョンーズ名誉会頭が大統領府職員の勉強会で、「韓国が金持ちになりたければ『ひもじいことは堪えても猜忌心は堪えることができない』という認識を変えなければならない」と話した。猜忌心から出た反富裕層情緒と下向き平等主義が、韓国経済の足を引っ張っている現象に対する正確な診断であると同時に処方だと見ているのである。しかし、猜忌心というのは、捨てようとして簡単に捨てられるものではない。
◆猜忌心は強い。ましてや「猜忌心は生きている人から生まれ、死ぬまで止まらない」という言葉や「猜忌する人は死ぬが、猜忌心は代々相続される」という諺まであるではないか。そんなに捨てきることができないのなら、猜忌心を生産的なエネルギーに活用してはどうだろうか。今までに発明された経済体制の中で一番效率的な資本主義の心理的原動力は利己心なのだから、猜忌心だとて、そうならないとは限らない。
◆ドイツの心理学者ロルーフ・ハウブルは『猜忌心』という著書で、猜忌心を乗り越える形は憂鬱、怒り、野心の三種類だと書いている。憂鬱は自責で、怒りは分配のための闘いに変わる。一方、野心は相手のようになるための努力につながるというのだ。憂鬱と怒りの経済的帰結は国家競争力の低下と内需低迷だ。私たちが見ているそのままだ。みんなが生きるためには憂鬱と怒りではなく、野心が猜忌心の噴出口にならなければならない。そのためには、機会の平等が保障されて、創意性と生産性が正当に補償される環境を作らなければならない。経済副総理は憂鬱に、与党は怒りに捕らわれている限り、経済が回復するはずがない。
千光巌(チョン・グァンアム)論説委員 iam@donga.com