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韓国大学生が第1位でゴールイン

Posted August. 08, 2004 21:49,   

한국어

「韓国大学生(Koreanischer Student)が世界の健脚たちを軽く押し退けました。その韓国人(Koreanische)はアジアの力とエネルギーで走りました。燃え上がるような太陽の熱気にも負けず、通りの硬い石の上を走りました。彼が今、トラックの最後の直線コースを走っています。優勝者「孫(ソン)」がちょうど決勝線を通っています・・・。」

1936年、ベルリン五輪組織委が当時、男子マラソンレースを場内に公式中継放送しながら、故・孫基禎(ソン・キジョン)先生を「日本人」でなく、「韓国人」で称したことが初めて確認された。

本報が最近入手した独逸歴史博物館(DHM)独逸放送記録保管室(DRA)資料によると、組織委側は12万の観衆が雲集したベルリン五輪スタジアムで進行された場内マラソン中継で、故・孫基禎先生を「韓国大学生」(実際に養正高等普通学校5年生)、「韓国人」と表現した。

日帝強制占領期に出場した故・孫先生はその間、ベルリン五輪組織委が作成した公式文書には「日本代表キテイ孫」とだけ表記されていた。

今からちょうど68年前の1936年8月9日開かれたベルリン五輪のマラソンには、27カ国56人の選手が出場し、1932年開かれたロサンゼルス五輪の優勝者であるジュアン・カルロス・ザバラ(アルゼンチン)が先頭に、故・孫先生は34番目、故・南承龍(ナム・スンリョン)先生は49番目にスタジアムを出た。

当時、マラソン実況中継は2時間40分近いレースの間、始終続けられた。今回本報が入手した資料は、これを3分20秒分量に編集したCD資料だ。

「五つのグループのうち、日本チームは一番前にいます。彼らは五輪で走った経験のない新人たちで、名前は南(南承龍)、シオアク(塩田労働者出身の日本選手・30km地点で棄権)、孫(孫基禎)です。日本チーム監督は、「孫」に勝つためには、太陽が灼熱しても、雨が降っても、砂利道でも、草道でも超人的に走ることができなければならないと言いました。結局は「孫」が優勝するという予想です・・・。」

故・孫先生は当時、29km地点でザバラを追い抜いて先頭に出てから決勝線に着くまで一度も振り返えないで単独疾走し、ザバラは32km地点で棄権した。

故・孫先生は生前に、「当時には振り返えるのが卑怯な行為と思われたので、前だけを見て走るしかなかった」と言った。



金華盛 insight@donga.com mars@donga.com