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「住民の1%が犠牲に」…「悲嘆の都市」ベスラン

「住民の1%が犠牲に」…「悲嘆の都市」ベスラン

Posted September. 05, 2004 22:21,   

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「一体どうして…」

人口3万4000人の平和な小都市だったロシア南部のベスランは、一夜にして「悲嘆の都市」に変わった。

人質事件は終わったが、全住民の1%を遥かに超える市民が死亡、または行方不明になった。

家族や親戚に犠牲者のいない家はほとんどない。そして何よりも、犠牲者のうち半分以上は「目に入れても痛くない」子供たちだった。

5日、犠牲者の初の葬儀がとりおこなわれた。市当局は最初、合同葬儀を行おうとしたが、あきらめた。犠牲者がますます増えるうえ、まだ生死の分からない行方不明者が260人余りにのぼるからだ。

まだ子供の生死が分からない行方不明者の親たちは、心焦がれる心情で、ベスラン中心街の広場と事故対策本部が設置された文化宮殿周辺を探し回っている。4人兄弟みんなの生死が不確実なタティエプ夫婦が、子供たちの写真を見せては通り過ぎる人々に行方を聞く、切ない姿が放送を通じて流れた。

生き残った人々も衝撃から脱することができない。息子アルランの始業式を迎え、家族6人で学校へ行って人質になったシダコプさん一家は、幸いにも全員救出された。しかし、子供たちは一日中一言も発せず、親の手を放さない。

専門家は生存者に対する心理治療が至急だと警告した。しかし、制限された医療施設と人力では、負傷者を治療するのも厳しいのが実情だ。隣近のブラディカプカスなど大都市に一部患者を移送し、状態の危ない子供20人余りはモスクワに緊急移送された。

悲劇の現場であるベスラン第1公立学校。爆発が起きた体育館は屋根と壁が崩れ落ちたまま鉄骨だけが残っている姿だ。あちらこちらに残った血痕と銃弾の跡が、悽惨だった当時の状況を物語っているだけだ。

市当局は学校の建物復旧を放棄して、他の所に初めから教舎を新たに作ると明らかにした。一部にはこの建物をそのまま保存して、テロの惨状を知らせる記念館としなければならないとの主張も出ている。

ベスランはトウモロコシからアルコールを抽出する工場があるだけで何の特色もなく、他の地域のロシア人たちにも馴染みの薄い都市。しかし、今度の事件でロシア人たちに永遠に消えない痛い記憶を残すことになった。

ロシア政府は6、7日を国喪日にした。

5日は首都モスクワが建設されてから857年を迎える「モスクワの日」だったが、大部分の祝賀行事が取り消された。

テロの恐怖が全ロシアを襲っている。3日、全国の学校が休校した。政府は各学校の警備を強化した。

しかし、追加テロに対する憂慮は消えていない。市民らは、人が大勢集まる場所には最初から行かないうえに、外出さえ避けるようだ。



金起顯  kimkihy@donga.com