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選手からCEOまで

Posted November. 10, 2004 23:08,   

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余りにも口数が少ないので、インタビューが難しいだろうと思っていた。しかし、一度開かれた彼の口は1時間以上止まらなかった。30年以上の野球監督人生。話したいことは多くて、時間は短かった。

韓国プロ野球史上初めて、監督から最高経営者に変身した三星(サムスン)ライオンズの

金応竜(キム・ウンリョン)新任社長(63)。10日、慶北慶山市(キョンブク・キョンサンシ)三星ボールパークで会った金社長は達弁ではないが、ざっくばらんな言い方で過ぎ去った歳月の話を切り出した。

▲私は福将〓1972年韓一(ハンイル)銀行監督を皮切りに今年まで32年間舵取りをやってきた。長寿の秘訣が知りたかった。「私には人徳がありますね。銀行頭取、社長、コミッショナー、良い方々にばかりめぐり合ってきたんだ。良い選手にめぐり合ってこそ優勝もできるんだよ」。1981年、韓一銀行監督時代38万ウォンだった月給は、83年ヘテ監督に就任して年俸2400万ウォンに跳ね上がり、今シーズン三星監督として2億ウォンの年俸をもらえたのも全て幸運だという。

▲万能スポーツマン〓金社長は最初はサッカーをやった。「釜山(プサン)ゲソン中学校1年生のときは、サッカー場でかなり活躍していたんだ。クラス対抗野球大会の選手に選ばれて野球と縁を結んだんだ。お腹一杯ご飯が食べられたので、一生懸命にやった」。1960年代、ソウルの明洞(ミョンドン)に出かければ、みんなに目を向けられるほど図体が大きかったという金社長は、72年、野球選手引退後20年近くテニスをやっていた。金融団テニス大会の代表で出場するほどなかなかの腕前。10年前からは膝がよくなくて山に登り始めた。これからはゴルフ。「野球団の社長になればゴルフが上手じゃないといけないらしい。1年ぐらい頑張れば問題ない」。現在のスコアは90台中盤。

▲大事な家族〓平安南道平原(ピョンアンナムド・ピョンウォン)で生まれた金社長は、10歳の時、一四後退(韓国戦争中だった1951年1月4日、中国人民軍の介入で韓国政府がソウルから撤退した事)に見舞われ、父親の手を取って南側へ降りてきた。「3日だけ避けていればいいと言われて家を離れたのに…それが最後になるとは…」。母親、姉、兄、妹と生き別れをしたというところでは目頭が赤くなった。「離散家族再会のたびに申し込んだがだめだった。騙されたことも多い」。

▲頭の痛い事〓金社長は来月からは球団の事務室に通うことになる。時間に合わせて出社するのは80年代の初め、韓一銀行時代以後20年ぶりの事。「ネクタイを締めれば胸がむかむかする。必ず締めなくちゃいけないのかな…」。金社長は演説と歌も嫌う。「司式者の要請もたくさん入るが、しゃべるのが嫌で…。しかも音痴なんだ。酒席で私に歌をさせる人は殴られるよ」。なのに、プロフィールの愛唱曲欄には「木浦(モクポ)の涙」と書き入れる。「ヘテ時代に観衆席から聞こえてくるその歌を余りにも多く聞いているうちに…」。

▲新しい人生〓野球監督をやらないと心が楽になると思っていた。「脚を伸ばしてゆっくり寝ようとしたが、むしろ良く眠れなかった。今後の事を考えれば、胸が騒ぐ」。三星ライオンズの枠を離れて野球の発展に向けて働きたいというのが彼の抱負。若手選手に希望を与えたいという。「コーチングスタッフの構成や選手の補強などは宣銅烈(ソン・ドンヨル)監督に100%任せる。私はもっと大きな事に取り組まないといけない」。

インタビューの間、金社長の携帯は休むことなく鳴り続け、祝電も伝えられた。野球人のお祝いのメッセージがほとんど。今季、プロ野球最優秀選手の三星投手のベ・ヨンスは、「私も引退すれば社長になれるという新しい夢を与えて下さった」と述べた。「社長金応竜」は本人にとってはもちろんのこと、野球界全体の祝い事だった。



金鍾錫 kjs0123@donga.com