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『血と骨』

Posted February. 16, 2005 23:00,   

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1923年、済州島から日本大阪に一人で渡ってきた金俊平(キム・ジュンピョン、北野武)は、暴力で自分の王国を築く。彼は妻李英姫(イ・ヨンヒ、鈴木京香)をいつも強姦し、娘と息子を殴り、家長として君臨する。蒲鉾工場を立ち上げた金俊平は、職員を搾取して金を儲ける一方、絶え間なく女性を貪る。25日封切りの在日朝鮮人崔洋一(チェ・ヤンイル)監督の新作『血と骨』は、映画というよりもむしろ野獣の冷たいドキュメンタリーを見るようだ。在日朝鮮人の作家梁石日(ヤン・ソクイル)の小説を原作にしたこの映画は、金俊平の暴力と繁殖の動物的生存方式を無表情に観察するだけだからだ。金俊平は、非倫理的なのではなく、はなから人倫の概念のない多細胞生物のようだ。

この映画は、味気ないだけにぞっとさせる。金俊平が息子の武と雨の中で「肉体対肉体」で取っ組み合う場面は、野獣の頭と若い野獣が獲物とメスをめぐって争う血の争奪戦を思い浮かばせる。息子は、父親に「この野郎」言って殴りかかり、父親は息子の顔を泥の中に押しつける。父親と息子という「位階」が維持されるのは、ただ父親が息子を力で押さえつけて勝ったからだ。これを悟った瞬間、観客は、悲しくそして恐ろしさを覚える。たとえ人間であっても、「関係」の真実はまさにこれなのだから。

息子の正雄は、父親を憎悪しつつも父親に似ていく。父親の暴力から抜け出すために結婚した娘は、また別の「雄」である夫の暴力の犠牲になる。「私たちに悪い血が流れているとしたら、どうすればいいのか」と言って焦ってみても、息子と娘は、父親が植えつけた呪うべきDNAを拭い去ることはできない。それがまさに血と骨に埋め込まれた運命の本質なのである。

金俊平の台詞は簡潔で、それゆえに怯えさせる。金俊平は、弱肉強食のジャングルで、食べて、買って、寝て、繁殖するのに必須不可欠な言葉を発するだけだ。彼が妻に投げる第一声は「キムチ!」であり、女を前にしては一言、「脱げ!」。自分をいつも「アボジ」と呼ぶ子どもたちと違って、俊平は「息子」「娘」、彼らの名前を一切呼ばない。拳を振り回して問うだけだ。「俺はお前のなんだ」。この言葉は質問ではなく、永遠に「アボジ」あるいは「雄」として生きるという自身への野獣的誓いのようだ。

『血と骨』は、その単刀直入なタイトルが語るように、全く「映画的」ではない。いかなる形式的かつ美学的成就にも無関心だ。この映画は、2時間22分の間、主人公金俊平を「見せる」よりは「放っておく」。そして、このような無責任を装った冷酷な態度の中で金俊平が発する殺気は、スクリーンを破って出てきて、観客の心を不安にさせる。映画的リズムと構成を拒否するこの映画は、このような方式を通じて、力強い越冬のエネルギーを作り出す。

北野武は常に無表情だ。しかし今回彼が見せた人物は、内面に何かを強く凝縮した従来のキャラクターとは違う。殴らなければならないなら殴り、殺さなければならないなら殺し、食べなければならないなら食べ、繁殖しなければならないなら、セックスをする。金俊平の中には、何も凝縮されてはいない。この映画はそれゆえに怯えさせる。人間が恐ろしい。18歳以上観覧可。



李承宰 sjda@donga.com