26日、金剛山(クムガンサン)で南北が再び泣いた。血を分けた家族に対する愛と情は、分断半世紀という歳月のギャップを埋めるに十分だった。
●…31日まで金剛山で第1次、第2次に分けて進められる第11次離散家族再会行事が26日午後3時、初の団体再会を皮切りに開かれた。今回の再会事業は昨年7月の第10次再会事業に続き13ヵ月ぶりに再開されたもので、第1次再会団には国軍捕虜2家族が含まれた。
第1次再会団に含まれた韓国側再会者99人の中には、80歳以上が50人、90歳以上が5人で半分以上が80代以上の高齢者たちだ。最高齢者は北朝鮮に住んでいる娘3人に会うチェ・ジェソン(97、男)さんと北朝鮮の孫たちに会うパク・ガンナム(97、女)さんだ。
当初、第1次再会者は南北それぞれ100家族ずつ合わせて200家族だったが、京畿道軍浦市(キョンギド・グンポシ)に住むチョン・ジョンウォン(73)氏が同日午前、高血圧で突然倒れ、韓国側の再会者が99人に減った。
第1次離散家族再会行事は26日から28日まで。韓国側100人が在北朝鮮家族235人に再会し、29日から31日までは第2次で北朝鮮側100人が在韓国家族435人に会う。南北の再会者たちは第1次、第2次それぞれ4回にわたる再会行事(団体、個別、三日浦共同参観、お別れ再会)と共同昼食会及び晩餐をそれぞれ1回ずつ行う予定だ。
行事最終日の31日には大韓赤十字社の韓完相(ハン・ワンサン)総裁と北朝鮮赤十字会中央会の張在彦(チャン・ジェオン)委員長などが参加したなか、金剛山で離散家族常設面会所の着工式が行われる。
第1次再会では、特に国軍捕虜出身の2家族の涙ぐましい話が目を引いた。
●…同日午後、金剛山ホテル2階の再会場で韓国側の末弟チョン・ハンヒョン(69)氏を抱きしめたチンヒョン(79)氏は、うめき声をあげて泣き、55年間の懐旧の思いを慰めた。
「両親は、両親はどうなったか」。手を握って切なく問う兄のチンヒョン氏にハンヒョン氏は「みんな亡くなりました。兄さんも義姉さんも…」と涙声で話した。ハンヒョン氏のすすり泣きはすぐ嗚咽に変わった。
1950年7月末、友達と一緒に国軍に入隊したチンヒョン氏は慶尚北道霊泉(キョンサンプクド・ヨンチョン)付近に駐屯していたところを、部隊員とともに人民軍捕虜となって北朝鮮へ渡った。戦争が終わって戦死通知も届いたが、両親は聡明だった3番目の息子の死を受け入れることができなかった。
「生きてさえいれば、北朝鮮側であっても生きてさえいれば、いつかは会えるだろう」と言って待っていた両親はそれを実現できないまま1970年と1972年にそれぞれ世を去った。
「お前一人しか残っていないんだね」。赤くなった目頭を拭いながら、深いため息を吐いたチンヒョン氏は、故郷の慶州(キョンジュ)の家の庭先で天気のいい日に弟と将棋をさしたことを思い出しながら「別れたときは幼い中学生だった君が、もうおじいさんになったな」と言って、弟の顔をなでた。ハンヒョン氏は「もう50年も経ったんですよ」と話した。
●…「たとえ兄さんに会えなくても、兄さんの家族に会っただけで胸いっぱいです。」
同日、国軍捕虜出身の兄、オ・ヒョンウォン(死亡)氏の夫人ホン・ジェファ(69)氏と息子ヨンチョル(39)氏に会ったヒョンウン(62)氏は、兄嫁と甥をぎゅっと抱きしめたまま震える声でこのように話した。
オ氏は「一度も会ったことのなかった甥だが、今見たら目つきが兄さんに似ている」と話し、わずか1年前に亡くなった兄をしのんだ。兄が亡くなった日が昨年4月21日だという事実も、今日の兄嫁の話で知ることができた。
7人兄弟の長男であるヒョンウォン氏の消息が途切れたのは1950年12月20日頃。当時20歳で軍に入隊したお兄さんはソウルを奪還した後、消息が分からなくなった。
戦争中に死亡したと諦めていたヒョンウン氏に懐かしい兄の消息が伝わったのは49年の歳月を経た1999年。兄のヒョンウォン氏が韓国側の家族を捜しているという字幕がKBSの離散家族捜索生放送に出たのを見て、直ちに大韓赤十字社に問い合わせた結果、兄の生存の事実を確認することができた。
ヒョンウン氏は直ちに再会申し込みをしたが、他の離散家族たちより高齢でないことから再会機会は6年が過ぎた今まわってきた。その間に、兄はもうこの世の人ではなくなっていた。
ヒョンウン氏は慈江道満浦市(チャガンド・マンポシ)に住む兄の家族に下着と綿手袋、マフラーなどを渡すことで満足するしかなかった。
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