このようにのろくて頑固な作家の作業方法は、ただ事物の精密さを表現するための手段ではない。
作家は過去30年余り、どう描くかよりも、何を描くかに重点を置いてきた。作家の絵は実際、私たちの見る事物が、果たして目に見えるそのままなのものかという、多少哲学的なテーマを盛り込んでいる。今回の個展テーマ「イメージの内と外」はここに由来する。
作家は、時間の足跡がまざまざとした鏡台、窓、多様な人物、野の風景などをごく写実的に描きもするが、遠近と明暗を無視して縦横に配置し、まるで超現実主義者の絵のように見える。展示場の入口で出会う1993年作の「無題」は、作家のこのような思考を端的に見せてくれる。
横460cm、縦235cmに及ぶ大型カンバスの真ん中に作家がぎっしりと描いた広い芝生が広がっている。芝一つ一つを数えられるかのように描き、遠くから見ると、壁に本物の芝が植えられているように見えるほどだ。作家はこの芝生を中心に、絵のところどころに多様な建物、人物、湖、川、そして、これらすべてのものを観照するような作家の自画像を描いた。
絵をじっと見ていると、まるで不条理と逆説に満ちた私たちの生の姿のように感じられる。「現実」という実在する(あるいは実在すると感じる)空間は、私たちが出会う芝生のように緻密でぎっしりと見えるが、その芝生を不規則に横切る人物や風景のように、スキと無秩序に満ちているというメッセージのようだ。
作家のこのような作業は、ふと見ると平凡な山一つと干潟なのに、遠くから見ればモナリザ、マリリン・モンローの顔のイメージを表す絵、そして、漢字を固まりのように一字一字崩して薄く描写する作業からも確認される。「字」という最も明確なイメージを解体しようという実験的な試みだ。
作家は90年代後半、「花」と「果物」という素材に重点を置きつつ、作品世界に一大変革を期した。職人的な細筆作業の特性を活かした、葉脈まで生きているかのような作家の花の絵は、実際に触ってみたくなるし、においをかいでみたくなる。緑のカボチャ、ピンクの蘭など多様で大きな花の前に立てば、まるで花の中に吸い込まれるかのようだ。自分の身体が限りなく小さくなって、その花の中のあちらこちらを迷いつつ絵の中の一部になったような経験をすることになる。
ソウル中区太平路(チュング・テピョンロ)ロダンギャラリーで10月30日まで開かれる作家の個展には、1980年代後半の風景画からこのような花のイメージを描いた作品まで40点余りが展示される。最近の作品であるナス、イチゴ、桐の葉、朝顔なども展示される。10月6日、22日午後7時には音楽会も開かれる。お問い合わせは02−2259−7781。
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