近畿大学の柄谷行人教授は、もともと経済学専攻だったが、英文学に専攻を変えており、文学批評を越えて世界的な文明思想家となった。社会科学と人文学をつなぎ、東洋人でありながらも西洋の合理主義をその内部から徹底的に読み解いた、バナナのような思想家だ。
『トランスクリティーク』は、そんな柄谷自身が、自らの野心作と言明した作品だ。カントからマルクスを読み解き、マルクスからカントを読み解くという二律背反的な読解が目覚ましい知的成果を生んでいるからだ。
観念論者であるカントと唯物論者であるマルクスがどのようにつながりうるというのか。カントは近代自由主義のルーツとして取り上げられ、マルクスは近代社会主義理論のルーツではなかったか。
著者はよく、経験論と合理論を総合したとして知られているカント哲学の核心は、超越論的な見方にあると見ている。カントの超越論的な見方は、主観を脱して客観に立とうとする絶え間ない反省的省察の産物だ。それは、経験論を観念論の立場で批判し、観念論を経験論の立場で批判する「位置移動(transposition)」と、それが引き起こす強烈な「観点の違い」を通じて獲得される。
これは、マルクスにもそのまま適用されるというのが著者の洞察だ。マルクス研究者たちが青年マルクスと壮年マルクスの間でたびたび道に迷うように、マルクスは観念論が支配するドイツでは、英国の経験論を通じてドイツのヘーゲル左派を批判し、経験論が支配する英国に渡れば、自らを「ヘーゲルの弟子」と公言する。
また、カントが「純粋理性批判」で形而上学に対する直接批判ではなく、人間の理性の限界を表すやりかたによって実践理性(倫理)を強調したように、マルクスも「資本論」で共産主義に対する展望ではなく、資本主義の緻密なメカニズムを明らかにするやりかたで、実践的介入の重要さを強調したというのだ。これは特に、カントが、時間や空間のように経験的に把握することはできないが、私たちの経験の基盤となる「痛覚X」を見出したように、マルクスは資本主義体制において、貨幤を、商品経済を成立させる超越論的形式としてとらえたという洞察として光彩を放つ。
著者は、カントとマルクスのこのような批判的な思惟方式が、横断的(transversal)で前衛的(transposional)であり、超越論的(trascendental)という点で、トランスクリティーク(transcritique)と呼ぶ。
本書の独創性は、このような読解をさらに発展させ、それぞれ自律的存在でありながら相互補完的な「資本−国家(state)−民族(nation)」の強固な三角関係を解き明かすやりかたで、これらを非暴力的かつ合法的に解体できる代案をも示した点にある。
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