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京城奇談

Posted July. 29, 2006 03:00,   

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「弟子と先生がキスをかけて花札をしてもいいというのか。お前の学校の校長という者が…に酔って…キスし…キスし…に酔って…」(「ピョルコンゴン」1934年4月号掲載の李アブ作ユーモア小説「キスかけ花札」から)

このとんでもない花札は、小説家の想像ではなく、実話だった。3・1運動民族代表33人のうちの一人である朴熙道(パク・ヒド)中央(チュンアン)保育学校校長は当時、女子の弟子たちとキスをかけて花札をしては、貞操を蹂躙したという大型セクハラ・スキャンダルに巻き込まれた。

33人のうちで最も醜悪に堕落した朴熙道の日本寄りの行状は、後に明らかになったものの、当時、朝鮮を激しく揺さぶった「女子弟子貞操蹂躙事件」をありのまま記録した史書はない。著者は、「人文学では、『日本寄り』より『セクハラ』がもっと大きなタブーだった」と言う。

スキャンダルと殺人事件ほど個人と社会の実像を赤裸々に暴くものが他にあるだろうか。この本はセンセーショナルな近代の風俗史とも言える。国文学者で韓国科学技術院教授である著者は、「人文学は私生活を隠してはいけない」という考えから、名士たちの私生活を調べ、殺人事件を通じて時代の空気を吸わせてくれる。

日本帝国強制占領期に、新聞や雑誌に10回あまり報道されたが、史書では一行以上記録されていない4件の殺人事件と6件のスキャンダルが、この本に収録された。事実を抽象化する分析なしに読みやすく書かれ、面白く読める。

本で紹介している「事件」は、日本帝国強制占領期が日本寄りと反日の二分法で簡単に説明できるほど単純かつ乾燥した時期ではなかったことを見せてくれる。著者は借金をしてまでお金を思う存分使った堕落した貴族たちと、京城(キョンソン=日本植民地支配下のソウルの旧名)の路地裏に密葬される死体、迷信と無知で命を失った下層民と、時代に先んじた新女性が同時に存在していた時代の風景を詳細に復元した。

史料と解釈を混ぜた同書の長所は、日本帝国強制占領期の暗い風景が、今聴いても別に縁遠くないという、ストーリーの現在性にある。

1937年、えせ宗教教主が100人あまりを皆殺しにした白白(ペクペク)教事件は、一時世間を騒がせた五大洋(オデヤン)事件を思い出させる。「財産は300ウォンしかない」と主張しながらも、お金を湯水のように使った純宗(スンジョン)の義父・尹澤榮(ユン・テギョン)侯爵は、数年前、財産が30万ウォンたらずだと申告した前職大統領を想起させる。

1931年、釜山(プサン)では、日本人主婦が、自分の不倫の現場を目撃した朝鮮人手伝いを、愛人に頼んで殺害したにもかかわらず、被疑者たちが全員無罪で釈放され、永久未済事件になった。被害者だけいて被疑者はいない事件、犯罪の事実関係さえ権力によって歪曲される様相は、現代にも繰り返されているのではないか。この本に載せられたストーリーの現在性は、人間の生というものが、昔も今も大差ないという点かもしれない。

やはり時代を超えた現在性が苦々しく感じられるのは、1931年、スウェーデン・ストックホルム大で経済学を専攻し帰ってきた新女性チェ・ヨンスクの悲劇的生涯からだ。

インドの青年を愛し、混血の私生児を妊娠したまま帰り、就職が出来ず、大豆もやし商売をせざるをえなかったチェ・ヨンスクは、27歳で若死にした。時代にあまりにも先んじ、異邦人を愛し、混血児を妊娠した彼女の悲劇をみて、著者はアメリカンフットボールの英雄、ハインズ・ワードのお母さんが、「韓国に来ていたら、乞食を免れなかっただろう」と言った逸話を思い出す。チェ・ヨンスクが数十年遅く生まれていたら、祖国で歓迎されただろうか…。

著者が暴く名士たちの傷だらけの私生活を読んでいると、昔も今も人間がいかに複雑な存在かを切実に感じる。朝鮮の卓越した音楽家は、病気にかかった妻をほったらかして、弟子と愛の逃避をした。野心家たちが偉大な理想のために「最も簡単に犠牲にするのは家庭と人格」だ。しかし、その「偉大なる愛」もやはり、惨めな日常を避けることはできなかった。本を読み終える頃には、「奇談」も奇異に感じられないだろう。



susanna@donga.com