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[社説]李容勲最高裁長官の発言はいき過ぎだ

[社説]李容勲最高裁長官の発言はいき過ぎだ

Posted September. 22, 2006 06:00,   

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李容勲(イ・ヨンフン)最高裁判所長官が全国の地方裁判所を訪れて言った発言が、大韓弁護士協会(弁協)の「最高裁長官辞任」要求まで触発するなど、法曹界の内外に大きな波紋を投げかけている。李最高裁長官は13日、光州(クァンジュ)高裁と地裁で、「司法の中枢は裁判所であり、検察と弁護士団体は、司法部が十分に機能するための補助機関だ」と述べた。「弁護士が作った書類は、たいていが人を欺こうとする文書だ」という発言をした。18日、大邱(テグ)高裁と地裁では、「1960年以降、法廷で歌を歌って靴を脱ぎ捨てた人々が、いま国政を動かしている」と述べた。さらに19日、大田(テジョン)高裁と地裁では、「民事裁判で(検事の)捜査記録を投げ捨て、公判中心主義でいかなければならない」と促した。

李最高裁長官は、司法部に対する不信の原因が司法部自体にあり、したがって司法部の改革が必要だという趣旨で発言したと考えることができる。権威主義政権時代、司法部が独立を守ることができなかった面があることも事実だ。そのような政権に対抗して闘争した人々の功労も、ある程度認めなければならない。しかし、彼の発言が、一方的に現政権担当者たちの肩を持つ印象を与えたことは、司法部の首長の立場としては不適切だった。最高裁長官の発言は重くなければならず、政治的に中立でなければならない。

1970年代にも実定法は厳然に存在し、それなりに所信があって政権の行動に批判的な判事が少なくなかった。司法の過去事を一緒くたにして清算の対象と見ては困る。特に、裁判所とともに法曹3輪を構成する検察と弁護士を司法部の補助機関と卑下するような印象を与えたことで、検察の遺憾表明まで招いたことは、思慮深くなかった。

公判中心主義を強調した彼の発言も、「法廷で直接真実を追求するよう努力しなければならない」という趣旨だが、不適切な表現のために色あせてしまった。「検事が密室で、非公開で得た調書が、どうして法廷陳述よりも優位に立てようか」という発言に、納得する検事がいるだろうか。「法官は判決でのみ語る」という法諺の精神は、最高裁長官にも当てはまる。最高裁長官の発言が波紋を呼ぶことは望ましくない。