消防署員の娘(32)はまともに話すことができなかった。
「一瞬も父親が誇らしくなかった時がありません…。『パパ、あまり危ない所には入らないで下さい』と真剣に話すと、私の手をぎゅっと握って『生命を救う1%の可能性があれば、希望を捨てるわけにはいかない』と言ったんです」
釜山金井区(プサン・クムジョング)ナムサン同のチムレ病院77号霊安室。定年退職(12月31日)をわずか1ヵ月後に控えた老消防署員は言葉がなかった。
14日午後、金井区ソ2同住宅街のガス爆発事故現場に埋沒された釜山金井消防署・ソドン消防交番所属のソ・ビョンギル(57)消防長が家族と周辺の切実な祈りにもかかわらず、結局死亡したまま見つかった。
「1%の希望も捨ててはならない」という召命意識を実践しながら現場で亡くなったのだ。
消防交番に緊急出動命令が下された時間は14日午後7時52分。ソ消防長は同僚2人と一緒に3km離れた事故現場に3分で到着した。
ソ消防長は、普段のように「迅速かつ落ち着いて」建物の一部が崩れた住宅の中に仲間と一緒に入った。1階のキッチンで全身にやけどをして呻いていた金某(57)氏と2階のファン某(78、女性)氏を5分で救出した。
この時までは残った壁体が2階の建物を支えていた。しかし、建物が「パチパチ」としながらすぐに崩れる気配だった。その瞬間、周辺で「中に3人がもっといる」と言う叫び声が聞こえた。この住宅には4世帯が賃貸で暮していた。
ソ消防長は同僚を外に行かせた後、1階の隅々を探した。誰かソ消防長の助けを切なく待っているかも知れないという考えで煙むたい煙の中を迷った瞬間、2階の住宅が「ドンと!」、あっという間に崩れ落ちた。
あの時が午後8時7分。「ソ消防長、ソ消防長」といくら切なく呼んでも返事はなかった。
一戸建てが密集した地域で消防車と掘さく機など重装備の進入が容易でないうえに、建物の残骸を一つ一つ持ち上げなければならない崩壊現場で救助が遅くなった。
地団太を踏んだ同僚消防署員の一糸の期待にもかかわらず、埋沒4時間半ぶりの15日0時40分頃、ソ消防長は冷たい遺体で見つかった。ソ消防長の脱出を塞いだ粗大で重いコンクリートブロックが伏せたまま死亡しているソ消防長の足を押していた。ソ消防長が「もし中にもっといるかも知れない」と憂慮した埋沒者は一人もいなかった。
救助現場に駆けつけて「他人の命は救助しながら、どうして本人の命は救助することができませんでしたか」とし、言葉を続けることができない息子(28)の泣き声も無駄だった。敢えて現場に出なくても良い立場にあったが、誰より先に出動して最後の瞬間まで本人を捧げた老消防士の犠牲精神に後輩の消防士たちは首を下げた。
1973年8月、消防士で第一歩を踏み出したソ消防長はいつも火災事故の現場にいた。
ソミョンのテアホテル火事の時もそうだったし、トソン商店街市場、国際市場の火事の時も同じだった。ソ消防長は消防士生活の間1万9500回も火事現場に出動し、1050人余りの人命を救助した。最後の瞬間、2人の生命をさらに救助しソ消防長が命を救った人は1052人。薄給で生活が厳しくて1980年になじんだ職場を発ってから1990年に再び復帰した。
父親からこのような誠実さに「他人のために働きなさい」という教えを受けた息子と娘も奉仕する職業を選択し、障害者特殊学校の教師と看護婦で勤めている。
同僚の消防士たちは、ソ消防長を「真の消防署員だった」と一言で表現した。
釜山市消防本部は、ソ消防長に対して1階級の特進とオクジョ勤政勲章を追叙することにした。金井消防署葬式で17日午前10時に行われ、遺体は大田(テジョン)国立墓地に安置される。051—583—8914。
一方、警察の調査結果、この住宅の崩壊原因がソ消防長が救助し出した借り家の人である金某(57)氏が本人の立場を悲観しながらお酒を飲んだ後、家庭用のLPガスを爆発させたことが明らかになり、回りをもっと悲しくさせた。
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