北朝鮮の咸境北道会寧(ハムギョンプクト・フェリョン)のある苗木会社に勤めていたL氏(35・女)。
2OO1年7月初め、ある見知らぬ男性が、彼女の帰り道をさえぎった。男性は小さな声で、「生活が苦しくないか。中国に行けば、金が稼げる」と言ってきた。L氏は誘惑にかられた。
1997年、両親が予防接種の副作用や栄養失調などで一度に死亡した後、4歳の妹と何とか一日一日を暮らしていたところだった。会社では仕事だけさせて月給を与えず、妹も体が丈夫でなく、寝ていることが多かった。二日に一日は食事ができない状態で生活しなければならなかった。
「どこに行っても、今以上の生活はできる」と考え、彼女は1週間後の夜、胸までつかる豆満江(トゥマンガン)を渡って、他の脱北女性2人と中国に渡った。龍井のある民家に泊まった2人は、2日後、それぞれ農村に売られた。
延吉で記者と会ったL氏は、「ブローカーにだまされ、田舎の年を取った独身男性のもとに売られ、妹と連絡もできないまま、何の希望もなく暮らしている。息をしているから生きているのであって、本当に生きているのではない」と話した。不法滞在の身分である彼女は、インタビューの間、周囲をきょろきょろ見回していた。
▲売られた後、半監禁状態で過ごす脱北女性たち〓会寧で看護婦として働き、昨年2月、中国の三合に来たG(26)氏は、黒竜江省の五常に売られ、驚いた。
62才の父親と32歳の長男など、男性5人だけのこの家には、自分が唯一の女性だったのだ。憂慮したことがまさに現実となった。父親と息子4人が、毎晩、「順番を決めて」体を求めた。体調が悪い時や生理の時も、例外ではなかった。周囲には民家もなく、誰とも接触できなかった。そんな「けだもののような生活」が、8ヵ月ほど流れた。
G氏は、自分に同情した2番目の息子を誘って、隣町に外出に出た際、逃げ出し、奴隷生活から辛うじて逃れることができた。敦化を経て、延吉のある救護機関を訪れたG氏は、「いっそ北朝鮮に帰りたい」と泣いた。G氏の事情を伝えた救護機関の関係者は、「彼女に旅費を与えたが、北朝鮮に帰ったかどうかわからない」と話した。
延吉で会った他の脱北女性K氏とC氏も、「昼には牛のように畑に出て働き、夜には男性のなぐさみものにならなければならなかった」と訴えた。2OOO年6月、北朝鮮を脱出し、汪清に売られたK氏は、「同じ村に来た脱北女性に会って話をしたら、男たちから集団暴行を受けた」と話した。彼女たちは、脱北女性たちは、周辺の監視はもとより、言葉が通じないうえ、いつ中国公安当局に逮捕されるか心配で逃げ出すこともできない、と話した。また、子どもができれば、子どものために逃げることができないという。
河北省秦皇島市には、約1O世帯に脱北女性が「集団売買」されて来たが、人里離れているうえ、監視が厳重で、反監禁状態で暮らしていると、ある脱北女性が打ち明けた。
▲地域と年齢で「値段」決まる脱北女性売買市場〓売られた脱北女性P氏の手に入った金は2OOO元(約26万ウォン)。ブローカーには8OOO元(約1O4万ウォン)が入った。また、他の脱北女性K氏は、比較的「売買初期」に売られ、1OOO元(約13万ウォン)だけ受け取った。延吉のあるブローカーは、「『脱北女性を買える』という情報が中国全域に広がり、地域別に異なる価格がついている」と話した。
彼は、「最近では、河北省の『注文価格』が、2O代女性基準で2万元(約26O万ウォン)と最も高く、延吉周辺の農村が2OOO〜3OOO元(約26万〜39万ウォン)で最も低い」と話した。河北省の場合、鉱山開発などで金が回るうえ、独身男性が多く、脱北女性たちの人気が高いという。また彼は、年齢などの「条件」によって、価格が変わると話した。市場も、東北3省一帯から内陸に拡散している。
いっぽう、中国の農村に売られた北朝鮮女性たちは、脱北者の身分であるため、正式な「母親」になれない。中国男性との間に5歳になった息子がいるH氏は、「今、男性と正常な夫婦関係を維持したくても、脱北者は、結婚式はむろん、戸籍にも載せることができず、幼稚園や学校の父兄会に顔を出すこともできない」と話した。
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