Go to contents

北朝鮮による拉致被害者の金セニョン家族の憤怒

北朝鮮による拉致被害者の金セニョン家族の憤怒

Posted December. 21, 2006 06:54,   

한국어

「北朝鮮に拉致された人とその家族は、韓国社会で被害者ではなく罪人です」

金セチョル(45)氏の一番上のお兄さんのセニョン氏は23歳だった1975年2月、非武装地帯(DMZ)にある大成洞(テソンドン)「自由の村」に働きに行き、同年の8月、そこで北朝鮮軍によって強制的に北朝鮮に引っ張られたまま、消息不明になった。

駐韓国連司令部は、「26日午後4時15分頃、2人の北朝鮮武装軍人が大成洞付近に侵入し、一人の韓国民間人を強制的に拉致した」と発表した。金氏の拉致事件は1975年8月27日付東亜(トンア)日報の一面に報道された。

李ウォンギョン当時文化広報部長官が同月27日、「北朝鮮の非人道的な暴力行為を民族という名で糾弾する」と声明を発表した。同月29日には、京畿道坡州市汶山邑(キョンギド・パジュシ・ムンサンウップ)で大規模な拉致糾弾大会が開かれた。

しかし、一カ月も経たず金氏の拉致は世間から忘れられた。むしろ軍事政権時代には金氏の家族は公安当局の監視の下で息を殺して生きてきた。生死確認の要請どころか、セニョン氏の名前を口に出すことすら恐れていた。

政権が変わった後、北朝鮮の機嫌をうかがい拉致問題について言及することすらしぶる政府をみて、セチョル氏は兄の生死確認を諦めようともした。その間、両親と二番目の兄が世を去った。

●罪人として過ごした30年

拉致当時、セニョン氏と一緒に働いていた人たちによると、北朝鮮の軍人二人が、畑で働いていたセニョン氏の肩を小銃の台尻で殴り、北側に引っ張って行った。

晴天の霹靂のような消息を聞き、「我が子を探してくれ」と訴えてまわっていた父親は、数日後に誰かと会ってきた後、「私たちまで危険になるから、このことについてはだまっていろ」と家族に言ってうなだれた。

「公安当局は拉致された人が洗脳され、スパイになって韓国に入り込むことだけに関心を払っていました。後で知ったが、他の拉致被害者家族も同じ苦労を経験していました」

長男を失ったが拉致問題を口にすることができなかった父親は、毎日のように酒を飲んでは嘆き、体を崩して7年後に亡くなった。母親は死ぬ直前までセニョン氏を求めた。

セチョル氏もやはり監視の対象だった。誰かがセチョル氏を尾行しているのは普通のことだった。

●拉致された事実も知らない政府

今年の6月末、高校1年の時に仙遊島(ソンユド)で拉致された金英南(キム・ヨンナム)母子の対面をきっかけに、政府が「拉致被害者家族支援のための特別法」を立法予告したことを聞いたセチョル氏は、家族の恨みをはらすために勇気を出した。

しかし統一部は、「拉致被害者名簿に乗っていない上、統一部には拉致被害者の実態に対する調査権がない」とし、「約60年にもなる歴史をめくり、拉致被害者の資料を見つける余力もない」と話した。また、「拉致被害者を調査するのは国家情報院の業務だ」と責任を転嫁した。

国家情報院は、「拉致被害者現況の公式的な集計は統一部の所管だ」とだけ述べた。

統一部は拉致被害者特別法が議会で可決されれば、拉致被害者の実態調査ができると予想した。しかし政府が立法予告までした特別法は国会で可決されずに、今年は終わりそうな状況だ。

「独裁政権の時代にはしばらく反共キャンペーンに利用されたのに、スパイとして韓国に入り込む可能性があると迫害しました。民主化以降は北朝鮮の機嫌をうかがい、知らん振りをしています。一体、拉致被害者とその家族にとって、国家とは何なのですか」

せチョル氏は絶叫した。



zeitung@donga.com