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「雪だるまのように愛が大きくなりました」

「雪だるまのように愛が大きくなりました」

Posted January. 20, 2007 04:59,   

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「予想より多くの方々に参列して頂き、お父さんに哀悼の意を表してくださった。感謝の気持ちでいっぱいだ。香典は生涯教育者として生きたお父さんの意思を称えられることに使ったほうがいいと思う。貧しい学生のための奨学金として寄付したらどうだろうか」

03年9月、享年80歳で死去した徐章錫(ソ・ジャンソク)元ソウル教育大学の学長。葬儀が終わったあと、家族たちがまだ悲しみに浸っているところに、徐元学長の夫人朴サンイ氏(80)は、子供たちを前に意外な話を切り出した。

長男の徐大源(ソ・デウォン)元ハンガリー大使など4男1女は快く母親の提案に同意した。遺族たちは香典にさらにいくらかのお金を足して1億ウォンの奨学基金を作った。

遺族たちの寄付のことが知られると、徐元学長の教え子たちが積極的に参加した。京畿(キョンギ)高校だけで23年間在職した徐元学長には名士になった教え子が数え切れないほどいっぱいいる。李洪九(イ・ホング)元首相をはじめ、薛元鳳(ソル・ウォンボン)大韓(テハン)製糖会長、朴賛謨(パク・チャンモ)浦項(ポハン)工科大学総長など、有名な弟子たちが先頭に立って1億ウォンを集めた。

弟子たちが募金に乗り出すと、遺族たちは感謝の気持ちとして再び私財をはたいて1億ウォンを寄付した。教育者の子女として育った平凡な中間層の遺族たちにとっては決して少なくない金だったが、誰一人いやと言わず、「名誉なことだ」と思った。

こうして集められた奨学金は「巨木基金」と言う名前で、現在「美しい財団」が管理している。

低所得層家庭の高校2、3年生の8人が、これまで同奨学金の恩恵者になって高校を卒業した後、大学に進学したが、徐元学長の遺族は一切奨学金の運営には口出ししない。

奨学金事業のほかにも美しい財団の1%の寄付活動に持続的に参加している徐元大使は、自分の実践が「父親からの遺産だ」と述べた。

「父親はいつも自分には厳しく、生涯大衆交通を利用するほど質素でした。家庭の事情が悪い教え子たちが自宅に来ると、自分のことのように心配しました。身をもって示した『人のために生きなさい』という教えが、どんな物質的な相続よりも、子どもたちには大きな遺産となりました」。

徐元大使の家族の寄付の履歴は、大韓帝国末にまでさかのぼる。曽祖父の徐ビョンチョル氏は中央(チュンアン)学校(現中央高校)を設立する際、自分が住んでいた14間のわらぶき家を寄付した。

このことは当時も話題となり、大韓毎日(テハンメイル)新報の1908年10月14日付に掲載された。同記事には「その夫人が答えるに、君子(夫)が国のため、また義のために献身しようとするので、女子は君子のためにたとえ家々を転々としながら門前で物乞いをしてでも、子供たちと一生に生きていくから…」と言うくだりが出ている。この家の家風が窺えるくだりだ。結局、曽祖父の徐ビョンチョル氏は、親戚の家を転々としながら一生を終え、祖父は日本植民地時代に独立運動に身を投げた。

徐元大使は死去した崔圭夏(チェ・ギュハ)元大統領の一人婿でもある。職業外交官としては先輩の崔元大統領も清貧な人生について、彼に大きな教えを与えた。

「家内の実家の人たちは、社会に献身し、勤勉節約することが体に染み付いた人たちですね。両家のこのような来歴は自然と引き継がれてきたものなのか、特に教えてもいないのに、会社員の2人の娘や婿たちも全収入のうち一定の割合を社会に戻す「寄付」を自然なことだと受け止めています」

30年あまり職業外交官として生きてきた徐元大使は、外国の寄付文化をいつもうらやましく思っていた。

「豊かな国であるほど個人が快く寄付に参加しています。少なくとも1、2件ぐらいの寄付は皆しています。私たちももうこれだけ豊かになったのだから、日常の寄付についてもっと真剣に考えてもいいのではないかと思います」



pen@donga.com