「あらゆる可能な世界のうち最上の世界」
ドイツの哲学者、ライプチヒが18世紀を指して語った言葉だ。世界史で18世紀が占めるvレゼンスは特別だ。欧州は啓蒙主義と自然科学の発達で新しい時代を建設し、東洋は清—朝鮮—日本間の戦争に決着がつき、平和の繁栄期を迎えた。それこそ、東西洋のすべての国々にとって「最上の世界」だったわけだ。
ところが、18世紀が終わったあと、世界の巨大な2大軸だった欧州と東アジアは、まったく異なる結果を迎えた。片方は世界を舞台に植民地を建設し、富と栄光をもたらしたいっぽう、もう一方では、その収奪の対象となった。果たして18世紀にどんなことが起きたのだろうか。
●朝鮮、近代を夢見る
18世紀の朝鮮は英祖(ヨンジョ、朝鮮王朝の第21代の王)と正祖(チョンジョ、第22代の王)という蕩平策(タンピョン、朝鮮時代に党派の争いをなくそうとした政策)を掲げた君主の下で、第2の全盛期を迎えた。正常的な国政を遮った党派間の争いは下火となり、経済的な安定の中で商工業が発展した。差別を受けた庶子とその子孫は特定の党と連合して、自分たちの政治闘争を展開し、文人たちは党の掲げた色合いによって離合集散しながら、政治的な意見を述べた時代だった。何よりも大きな変化は西洋との出会いだった。清朝を通じて西洋の科学や哲学に接した洪大容(ホン・デヨン)、朴趾源(パク・チウォン)、丁若饁(チョン・ヤギョン)など、新進学者たちは進んだ文物を積極的に朝鮮に導入した。西洋学門に寛大だった正祖の暗黙的な黙認の下、カトリックが入り、さまざまな西洋の科学技術の書籍も研究され始めた。君主の口から「民国」という言葉が使われ始めたのもこの時からだ。民が国家の重要勢力として認識された。
●中国、安定の中の豊かさ
18世紀は中国歴史上もっとも安定した康健成世(康熙帝—雍正帝—乾隆帝)の後半期だった。モンゴルや明の残存勢力がすべて鎮圧され、時代は安定し、商工業が発展して、人口は2億人から7億人に急増した。目覚まし時計やピアノなどによって乾隆帝の心をつかんだカトリックの宣教師たちは、北京での滞在が許可され、西洋の文物を伝播した。中華について「漢族のみならず、中国の文物をよく理解し、継承すれば誰もが中華だ」という新しい解釈が出て、民族を超えた抱擁的な考え方が拡散された。実証的に学問である考証学の発達が進んだのもこの時だった。
●西洋、東洋のコンプレックスから抜け出す
デカルトやライプチヒなどの活躍で近代科学の方法論的な土台が作られ、宗教の枠を超えた急速な科学技術の発展が始まった。思想の面では、ルソーを中心に、近代市民の自覚が始まり、人間の理性の力を強調する啓蒙主義が現れた。カフェやクラブなどが登場し、社会的な公論の場が設けられ、市民社会の発展は絶対君主の象徴だったフランス王の処刑と共和政を導き出した。このような近代的な変化と発展は、欧州に自信を持たせ、東洋に対して持っていた長年のコンプレックスから完全に脱することができた。
これだけ見れば、18世紀は東西洋の黄金時代だった。しかし、それに続く結果は異なった。何が原因だったのだろうか。18世紀の精神の失踪や変態的な発達のためだった。18世紀の精神は東西洋ともに、人間の理性への信頼や旧体制の矛盾から脱することにあった。しかし、清朝と朝鮮は共に保守革命という鉄鎚に打たれた。清は開放された中華の姿を呈していたものの、内部的には「四庫全書」という思想の統廃合を通じて支配勢力である満州族の安定を図っただけだった。
朝鮮は、性理学を世界創造の絶対的な原理から道具に格下げすることに失敗した。「完璧に」宇宙の原理を説明する性理学をあがめる旧体制に、結局勝てなかった。清と朝鮮の共通点は、「絶対的な存在」(皇帝や性理学)から決して脱することができなかったことだ。このため、18世紀の流れは結局、少数勢力としてうやむやに消え去った。結局、絶対的な存在(キリスト教と国王)を克服することに成功した欧州とは逆の終点に向かって突っ走ったのだ。
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