▲忘れ去られた革命〓23日、記者が訪れたサンクトペテルブルクの政治博物館に保存されたレーニンの執務室。彼の執務室の建物は、最後の皇帝、ニコライ2世の愛人だったバレンティナー・クシェシンスカヤが使った邸宅で、ボルシェビキが1917年初頭に奪い、10月革命を準備したところだ。
入場客たちは、かつての共産党幹部たちの聖地だった執務室やベランダの隣を、何気なく通り過ぎた。
団体観覧に来たというロシアの大学生たちは、「社会主義イデオロギーで武装したボルシェビキ指導者たちが、皇帝の愛人の自宅を奪った理由が分からない」と、冗談をやり取りした。彼らは、レーニンが使った事務什器には目もくれなかった。
ある大学生は、「学校内にはレーニンとは博物館だけで会いたいという意見が広がっている」と話した。彼は、「いまだにモスクワのクレムリン広場に安置されているレーニンの墓をほかのところに移すべきだ」という世論について「レーニンを記憶から消したいという国民の願望のためだ」と説明した。
レーニンの後を継いだスターリンの肖像画は、博物館の鉄格子に隠されていた。鉄格子の一部はすでにはがれていた。革命勢力の一員であり大虐殺の主役へののろいや憎悪がまだ終わっていない証だった。
60歳を超えた博物館のガイドは、「スターリンに弾圧を受けた市民たちが、時々詰め掛けてきては、肖像画を破ろうとするので、このようになった」とし、「社会主義の原罪は容易には許されないだろう」と耳打ちした。
1917年10月25日(旧暦)午後9時40分、ペトログラードのネバ川辺で革命の信号弾を打ち上げた巡洋艦「オーロラ号」。この船の周辺は、最近、資本主義の観光名所と変わっている。
ガイドと見られるロシア人は、記念品販売台の前で写真を撮る観光客に「スリに気をつけろ」と叫んだ。財布を背広の内ポケットに入れようとしたある観光客は、「革命記念日を、悲しい思い出ではなく、このようなやり方ですごすのも楽しいことだ」と語った。
同年2月、ニコライ2世が廃位された後、臨時政府の内閣が使用した冬の宮殿も、歴史的な出来事を冷たくあしらっている。この宮殿は、革命軍が1917年10月26日午前2時10分、アレクサンドロ・ケレンスキー臨時政府首相を逮捕するための包囲作戦を展開したところ。
革命軍が押し入った宮殿内の皇室の食堂は、革命記念日を控えて、修理に入った。食堂に続く「暗い通路」で出会った冬の宮殿のガイドたちは、「2時10分に止まっている食堂の時計ももはや掲げられておらず、訪れてくる人もあまりいない」と話した。
▲革命の遺産や毒素〓ロシアの市民たちは、世界で始めて成功した社会主義革命から目をそらす理由として、革命スローガンに盛り込まれた毒素や、革命勢力が後世に残した後遺症を挙げている。
革命勢力は、「パンや土地、平和」を掲げて、労働者や農民を革命主力軍として利用した。しかし、革命のスローガンは革命の同調勢力を集める「まじない」にすぎず、結局何も実現できなかったというのが、市民たちの考えだ。
ボルシェビキたちが使用した革命政府の庁舎(現在のサンクトペテルブルク市役所)の前で出会った人たちは、「10月革命が掲げたパンや土地の平等は、『万人の貧困』を招いた。社会主義末年のソ連は地下資源を売って食料を求めたため、国力を使い果たし、殻だけ残った」と批判した。
「万国のプロレタリアよ、団結せよ」というスローガンが書かれていた庁舎の入り口を通りかかった二ナ・プロロバ(52、女)氏は、「共産党1党の独裁が生んだ恐怖や暴力政治は、民主主義の進展を決定的にさえぎった」と話した。
資本主義の導入以来、命脈を維持したロシア共産党は最近、「私有制度を清算した10月革命が、産業化や集団農場、文化革命を花咲かせた」と宣伝した。このような共産党の言葉に耳を傾ける人は、今は少数にすぎない。今年、ロシア共産党への支持率は10%未満に落ちた。
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