「お前は昔の姿のままに存在してこそお前の生命があり、お前はその姿のまま崩れてこそお前の一生を終えたことになる。…(光化門が取り壊される)槌の音が北岳(プガク)にぶつかる、そして切なく思う白衣の人(白い服をよく着ていた韓国民族のことを言う)の胸にもぶつかる」。1926年8月、東亜(トンア)日報に載せられたコラム「壊される光化門(クァンファムン)」の一部で、民族の憤りが切実に綴られている。このコラムを書いた薛義植(ソル・ウィシク)は以後、東亜日報の編集局長を務めたが、孫基禎(ソン・ギジョン)日の丸抹消事件で退職し、光復(クァンボク=日本植民地支配からの独立)と共に復職した。
◆日帝は景福宮(キョンボックン)正門の光化門を取り壊し、建春門(コンチュンムン)の北側(今の国立民族博物館の場所)に移した。新しく建てた総督府庁舎から六曹(六つの官庁のこと)通りがすぐ一望できるようにするためだった。朝鮮の美術を愛した日本人柳宗悦は同事件に対してこのように記している。「天然と人工の素晴らしい調和が無理解な人間のために破壊されている。…そのすぐ前にこれら東洋の建築とは何ら関わりのない膨大な建築、つまり総督府がいま竣工を急いでいる」。同じ憤りであり悲しみであるが、薛義植の民族的な憤りとは違って、建築的な美しさが損なわれることに対する批判にとどまった。
◆景福宮が朝鮮の法宮だった期間は思ったより長くない。すべて日本のせいだ。太祖・李成桂(テジョ、イ・ソンゲ)が創建したが、文禄慶弔の役の時に焼失したため、以後、王は主に昌徳宮(チャンドックン)で暮らした。朝鮮末期に大院君が再建したが、日本による明成(ミョンソン)皇后殺害事件で、高宗(コジョン)がロシア公使館に身を避けた後は、二度と国王がここに戻ることはなかった。脅威を感じた高宗は、列強の公館で取り囲まれている慶運宮(徳寿宮)に還宮し、大韓帝国・皇帝の即位式もそこで執り行われた。
◆朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が1968年に光化門を復元したものの、鉄筋コンクリートの建物である上、正確に元の場所でもなかったので、木造の建物に建て直すための工事が現在進められている。その過程で再建の時の跡だけでなく、創建の時の跡まで出て、この遺構の保存問題が議論の的になっているという。長々しい言葉が何が必要であろうか。文化財は保存が第一で、復元はその次だ。
許承虎(ホ・ソンホ)論説委員 tigera@donga.com