2日、光化門広場は1日中、にぎわうムードだった。次々に広場を訪れる市民たちは、不思議そうに広場を見回し、明るい表情だった。子どもたちは、李舜臣(イ・スンシン)将軍銅像の周りで噴き出す噴水に服を着たまま跳び込み、暑さを冷やした。地下鉄5号線を降りれば広場につながる連結路が作られた。連結路の北の方向は、現在復元工事中の光化門につながる。広場の背後にあるソウル城郭の主山である北岳山(プクアクサン)が、広場を見下ろしている。
光化門広場が1日にオープンした。光化門一帯は、朝鮮時代以後、歴史と政治の心臓部の役割を担ってきた。光化門は、ソウルの正宮である景福宮(キョンボククン)の南門で、光化門の前に立って南方を眺めれば、両方に官庁を従えていた。「六曹通り」と呼ばれた場所だ。600年の間、政治と権力の象徴だった場所が、市民が自由に歩き休息を取る広場に生まれ変わった。
ソウル市は、歴史性を強調する設計を選んだ。既存の李舜臣将軍の銅像とともに、世宗(セジョン)大王の銅像を配置し、韓国人が最も尊敬する2人の人物をともに奉る広場にした。光化門という名称は、世宗大王時代の1425年につけられた。元々は四政門と呼ばれたが、「王の大きな徳が国を照らす」という意味の光化門に改称された。世宗大王の銅像は、広場の意味を輝かすことだろう。
呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は、開放初日、「フランス・パリのシャンゼリゼのように、国のアイデンティティを示す国の象徴的な場所になるだろう」と説明したが、補完も必要だ。広場造成のために、世宗路の16車線が10車線に縮小され、先週末、周辺道路は交通渋滞となった。日差しを避ける施設として、所々にひさしが設置されたが、暑さ対策には十分でなかった。
広場が政治勢力のデモの場所に変質してはならない。周辺に、政府機関や在韓米国大使館があり、大統領府までは、ソウル広場よりも近い。ソウル市は、ここに政治的集会を許可しないことを決めた。関連条例で、集会許可の基準をソウル広場より厳しく適用する方針だ。しかし、ソウル広場や清渓(チョンゲ)広場で、文化イベントだとして政治的集会を繰り返してきた一部勢力のやり口を、根本的に遮断できるか心配だ。
光化門広場が、韓国の代表的な名所になるには、市民の憩いと文化のための空間として根づかなければならない。昨年の5月から3ヵ月間、ソウル都心を占領したろうそくデモ隊に広場をもう一つ作ってやる格好になれば、むしろ車道をそのままにしておいたほうがましだ。不法デモと政治に汚されない「市民広場」、「平和広場」の伝統を国民の意思で築かなければならない。