79年10月26日夜、当時、宮井洞(クンジョンドン)安全家屋の晩餐会場で生き残った人々は、30年が過ぎた今、どのような生活を送っているのだろうか。
朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領襲撃当時、宮井洞安家での晩餐会に同席した金桂元(キム・ゲウォン)元大統領府秘書室長は、ほとんど引きこもって生活している。金氏は、同事件で殺人や内乱未遂罪で1、2審で死刑、最高裁判所で無期懲役を言い渡されたが、82年に刑執行停止を受けて釈放された。今年86歳の金氏は、04年に胃がんの手術を受けた後、ソウル江南区狎鴎亭洞(カンナムク、アックジョンドン)で家族とともに暮らし、健康管理と信仰生活に専念している。金氏は事件後、06年にメディアとの初めてのインタビューで、「新軍部が金載圭(キム・ジェギュ)による単独殺人事件を内乱と決めつけた」と主張した。
晩餐の席にいた歌手の沈守峰(シム・スボン)氏(50)と広告モデル出身の漢陽(ハンヤン)大学演劇映画科3年だったシン某氏(49)は、事件後しばらく隠遁生活を送り、94年に並んで自叙伝を出版して、当時の状況について心境を打ち明けた。今年初め、デビュー30周年記念コンサートを行った沈氏は、現在も歌手として活動している。シン氏は、事件直後米国に渡り、結婚後に帰国して平凡な主婦として暮らしている。
事件当時、4発の銃弾を受けて負傷しても生き残った朴相範(パク・サンボム)警護室遂行係長(66)(当時)は、盧泰愚(ノ・テウ)政府時代に民主平和統一諮問会議事務総長、金泳三(キム・ヨンサム)政府で大統領警護室長と国家報勲処長を務め、98年に公職を離れた。朴氏は25日、東亜(トンア)日報の電話取材に対して、「あの事件のことは忘れて、平凡に暮らしている」と話した。「日ごろから人間関係が円満だったので、金載圭の部下がとどめの一発を撃たなかった」という説について、「後日、そんな話を聞いた」と言って笑った。
当時、景福宮(キョンボックン)の隣の国軍ソウル地区病院の整形外科課長のもとに緊急搬送された朴大統領を迎え、朴相範係長を大手術の末に助けた成相哲(ソン・サンチョル)陸軍少佐は、現在、ソウル大学病院の院長だ。79年12月4日、戒厳普通軍法会議(1審裁判)の金永先(キム・ヨンソン)裁判長(80)は、翌年、陸軍中将として予備役に編入した後、中央情報部第2次長や第11、12、13代国会議員を歴任した。
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