ウテク君は事故の後、しばらく血が出るほど両足の甲をかいたという。かさぶたが取れる前にかいては、また出血するということが繰り返された。一晩に何度も「水が引いたよ、お父さん…」と寝言を言って、目が覚めることがたびたびあった。戦う夢もよく見た。ウテク君は、予告なくダムを放流した北朝鮮にも、誰も助けに来なかったことについても、憤りを露にした。医師は、「ウテク君の心は怒りに満ちている」と語った。ハン氏は、「ウテクは、1ヵ月前から良くない記憶をなくす治療を受け、最近はよく眠れるようになった」と話した。ウテク君の妹(9)も、父親のことを一切話そうとしない。妹は、「いつ、お父さんに会いたいですか」というカウンセラーの質問に、「今です」と答えた。
9才の息子と夫を一度に亡くした金さんは、「夫と撮った写真はテーブルの上に飾ったが、息子との写真はとても見ることができない」と話した。金さんは、最後の日記やおもちゃなど、息子の物はタンスの奥深くにしまった。最も鮮明に思い浮かぶのは、テコンドーが好きだった息子の道着だった。金さんは、息子が取った黄色帯、録帯、茶帯、青帯、赤帯、黒帯もすべて大切にとっていた。金さんは、「知人は捨てろと言うけれど、絶対に捨てることはできない。老いて死ぬまで持ち続ける」と言って、涙を浮かべた。長女のハンソルさん(12)は、父親の四十九日の朝、「お父さんが昨夜夢に出てきて、おいしい肉を買ってくれた」と話し、金さんを悲しませた。
李ギョンファさんと亡くなった夫のペクさんは、故郷が同じ忠清南道青陽郡長坪面(チュンチョンナムド・チョンヤングン・チャンピョンミョン)で、同じ小学校、中学校に通った。ペクさんは、00年の秋夕(チュソク=旧暦の8月15日)に故郷に戻って、友人の店で久しぶりに会った李さんに「まだ結婚していないなら嫁に来い」と言った。2人はその年の12月に結婚した。17日が結婚9周年。李さんは、「事故の前日の土曜日に『行ってくる』と言って家を出たが、それが最後だった。ここにいる妻たちは、誰も別れのあいさつをしていない」と語った。
世間には、遺族の補償金の支給は終わったと伝えられている。しかし、遺族側は、一部の仮支給だけ受け取った状態だ。遺族側は、補償額をめぐって水資源公社と意見が合わず、16日に裁判所の第1回調停を控えている。水資源公社は、臨津江(イムジンガン)は夜間キャンプ禁止区域であり、被害者にも過失があるとして、それだけ補償額から差し引かなければならないと主張してきた。
遺族代表の李ヨンジュさん(48)は、「被害者は、水資源公社の警報システムが作動していたなら生き残ることができた。生涯、子どもを育てて生きていかなければならない母親の境遇を無視する措置だ」と主張した。
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