趙顕五(チョ・ヒョンオ)警察庁長官の子どものときの夢は軍人だった。しかし彼は高校時代に視力が低下し、陸軍士官学校への進学を諦めた。その代わり、警察幹部候補生になろうとしたが、兵役済みという資格を満たすことができず、結局大学に進学した。1981年、上級外交官試験の外務考試に合格し、8年間外交官として勤務しては、1990年警察官に転身した。趙長官が就任式で「実に遠回りの道を歩いて皆さんの前に立つことができた」と語ったのは、これまで歩んできた道のりに対する感想だったのかもしれない。
◆趙長官は06年12月治安監に昇進したあと、4年も経たないうちに警察のトップになった。08年、釜山警察庁長時代に「競争意識を通じて組織に活気を吹き込む」として警察では初めて導入した成果主義の功が大きい。しかし、趙長官は、日ごろの職員たちの勤務綱紀と実績を強調し過ぎたあまり、「死神」「クラゲ」と言われ嫌われた。「盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の借名口座」発言の動画流出や趙氏の辞職を求めたチェ・スチャン前江北(カンブク)警察署長の下克上の記者会見は、警察内部の軋轢が表面化したものだが、成果主義の影とも言える。
◆趙長官は5日、全国の警察官に宛てた「和合の重要性をかみしめるべき時期です」と題した「指揮書信1号」で、慎重な言動を求めた。趙長官は「組織内部の葛藤や論争がマスコミなどを通じて外部に知らされ、国民に心配をかけるようなことがないよう、みんな自粛して組織の発展のために心を一つにしなければならない」と強調した。長官任命を前後して表沙汰になった警察内部の軋轢を収束するための措置と受け止められるが、内部問題をマスコミのせいにしているようで残念だ。
◆04年に警察長官の2年任期制導入以降に任命された5人の長官のうち、任期を全うしたのは1人だけだった。そのくらい警察庁長官は内外の風当たりが激しい組織だ。盧武鉉政府は05年に竹やりと鉄パイプを振るうデモ隊を排除する過程で農民が死んだことで、「過剰排除」の責任を負わせて許准栄(ホ・ジュンヨン)長官を解任した。李明博(イ・ミョンバク)政府は、龍山(ヨンサン)惨事の責任を問い、警察庁長官に内定した金碩基(キム・ソッキ)氏を辞めさせた。これからは権力が警察トップを「政治の生贄」にするようなことがあってはならないが、警察が権力の顔色だけを伺っていても困る。趙長官が就任早々に警察内部の言動に注意を呼びかけたことが、権力と世論に対する過剰な気遣いでないことを望む。