北朝鮮政権が運営する「わが民族同士」というウェブサイトが有名になった。「アノニマス」という国際的ハッカー集団によるハッキング事件のためだ。同じ名前のパロディサイトがCNNに紹介されたほどだ。北朝鮮政権は口癖のように「民族事業」と云々し、最近では北朝鮮政権の核兵器を「民族共同の資産で支える」ことを求めている。群衆的狂気を崇める人民民主主義を自由民主主義と混同することと同様、政治的に危険なことが「わが民族」への誤解だ。
1948年の北朝鮮政権の樹立後、北朝鮮住民の脳裏には檀君朝鮮と李成桂(イ・ソンゲ)が建てた朝鮮、そして日本植民地支配期の朝鮮を朝鮮民主主義人民共和国が継承しているという「朝鮮民族」概念が刻み込まれた。彼らにとって「韓民族」とは「朝鮮民族」から分かれた枝にすぎない。このため「北」と言っても「北朝鮮」という呼称は決してない。
これと違って、大韓民国では「わが民族」とは韓民族を意味する。大韓民国憲法前文で「民族の団結を強固にする」と言う時、それは韓民族の団結を意味する。北朝鮮と違って、大韓民国で「韓民族」概念が「朝鮮民族」概念に最終的に取って代わったのは1950年1月に李範奭(イ・ボムソク)首相が発表した国務院告示第7号による。「わが国の正式国号は『大韓民国』なので、使用の便宜上『大韓』または『韓国』という略称を使うことができるが、北朝鮮傀儡政権と明確に区別するために『朝鮮』は使用できない」とした。ところで、青山里(チョサンリ)戦闘の英雄だった鉄騏李範奭自身も、1946年には彼に従った青年を集めて建国団体を作り、「朝鮮民族青年団」と命名した。1948年にロンドン五輪に派遣された選手団の旗にも「朝鮮オリンピック代表団」という名称が使われた。
「韓民族」概念と「朝鮮民族」概念争いは、1919年の大韓民国臨時政府、そして1897年の大韓帝国の樹立まで遡る。光武皇帝(高宗)が古代の3韓(馬韓・辰韓・弁韓)を統合的に継承するという意味で命名した大韓帝国の樹立後、「大韓」または「韓国」という概念は帝国的秩序から脱した国際的「独立」の意味を内包した。これに西欧の「ネイション」を翻訳した「民族」という言葉が結びつき「(大)韓民族」という概念が普及した。
日本による韓国併合後、「韓国」を再び「朝鮮」に格下げしたのは、日本の「朝鮮総督府」だった。過去、中華帝国的秩序の中で「朝鮮」として存在したように、日本帝国の支配下で「朝鮮」として存続しなければならないという考えだった。このため、植民地支配下で「朝鮮民族」の概念は可能だったが、「(大)韓民族」の概念は不可能だった。安重根(アン・ジュングン)義士は自らを「大韓国人」と言ったが、多くの人は「朝鮮人」という呼称を使用した。
1945年の光復(植民地支配からの解放)後まで「朝鮮」という名前に残された民族的感情を誤用して「朝鮮民族第一主義」に則って自閉の道を歩んだ北朝鮮政権は、1994年の金日成(キム・イルソン)主席死去後から突然「金日成民族」という概念を普及させ始めた。1997年には北朝鮮で使われているハングルを「金日成民族語」と命名したりもした。「金日成民族」こそ封建的「朝鮮民族」が近代的に変化した新しい民族ということだ。このような認識は、1897年の大韓帝国樹立を前後にして「朝鮮民族」がすでに「韓民族」に変化したという事実を看過した時からだ。北朝鮮の「朝鮮通史」は大韓帝国の独立について記述していない。
北朝鮮政権が「わが民族同士」談論を前面に出し、海外コリアンと韓国国民を引き込む間、韓国社会の一部では民族概念そのものを排撃する談論が流行した。西欧中心主義的脱民族談論の無分別な輸入が大きな影響を及ぼした。しかし、13億人の中華民族論や「一文明、一人種、一言語で構成された単一民族」という日本民族論があるなかで民族概念を放棄することは危険だ。周辺民族にいつの間にか吸収されたり、民族概念を「無主空山(所有主のない山)」ように「朝鮮民族」や「金日成民族」に譲り渡す恐れもある。
「韓民族」は古朝鮮後に朝鮮につながる人文共同体を継承し、大韓帝国、大韓民国臨時政府、そして大韓民国を発展させたハングル共同体だ。まだ「韓半島」よりも「朝鮮半島」、「韓民族」より「朝鮮民族」という用語を使う中国と日本で広まっている韓流も、抑圧された「朝鮮民族」が自由な「韓民族」に進歩することで可能になったのだ。「朝鮮民族」を「金日成民族」に後退させようとする北朝鮮政権の政治的企図を傍観してはならない。「朝鮮民族」が「韓民族」に進歩した歴史認識を共有し、そのような歴史的流れの中に北朝鮮住民を合流させる様々な努力を継続的に展開しなければならない。