4月20日の大地震発生の翌日、中国四川省雅安氏蘆山県を訪れた。野宿をしなければならず、大通りの歩道に場所を決めた。午後10時頃だったか。前に止まっていたシルバーのBMWの助手席にボランティアのラベルをつけたおしゃれな20代の女性が乗り込んだ。運転席には同年代の男性が座っていた。2人は車内で何か相談している様子で、しばらくして車でどこかに行った。
ボランティアとBMWの組み合わせ。道路を埋めつくした救急車と仮設テント、続く余震の風景と妙な不調和を成していた。ボランティアと災害現場の奇妙な同居は、蘆山の特徴でもあった。ここには1万人以上の若いボランティアが集まっていたが、大半が手持ち無沙汰だった。昼間はうろうろし、夜には三々五々集まって遊んでいた。
若いボランティアが遊休人材に転落した理由は、当局が必要としないからだ。政府は、軍と政府の救援組織だけで現場の支援は十分だと明らかにした。にもかかわらず、若者たちはインターネットでボランティア隊を結成して集まって来た。現場に被災者よりもボランティアが多くなると、当局は解散を求めた。5年前の汶川大地震の初期にボランティア不足で困っていたのと比べれば隔世の感だ。
中国で、「他人事は関わるな(別管閑事)」という言葉がある。そのため、ショッピングモールで老人が倒れても、市場で幼稚園児が車にはねられても見て見ぬふりをし、報道されたりもした。しかし、今回の地震の時は、若者がBMWで来たり、自転車で山道を走って来たり、ひとまず現場に駆けつけようとしている。
彼らが蘆山に駆せ参じたのは、人道主義の立場からだ。しかしそれだけだろうか。することがなくても家に帰らず、夜通し歌を歌って遊んでいる。一時的に無政府状態になった災害現場に一種の解放区を求めているのではないだろうか。最低限の秩序が維持されているだけの所で、アスファルトを占有し、社会主義の政治体制で統制されてきた若さを吐き出しているような気がした。
中国版ツイッター「微博」に閉じ込められていた欲求が、オフラインで噴出したのは今回だけではない。昨年の尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題で、中国都心を埋めたデモ隊は「憤青」、いわゆる憤った青年たちだった。北京の日本大使館の前で会った学生たちは、「浙江省から丸一日汽車に乗ってきた。日本が嫌いだが、デモができてうれしい」と話した。
1989年の天安門民主化運動の時、北京大学1年生だったある知人は、「私たちは失敗した世代だ。再び街頭に出て行けない」と話した。あれから約20年が経ち、若者が再び集まり始めた。1月の「南方週末」事件で見たように、政治的事案に対する結集力は欠ける。しかし、外に向かって何か言いたくて行動で示そうとする。習近平時代に入って統制が一部で緩和されているのは、手綱を緩めなければ爆発してしまうからだ。
天安門事件後、民族主義教育の洗礼を受けて育った「八零後」(1980年代出生者)は、西欧に憧れながらも、中華主義の自尊心で固く結束した世代だ。国家と民族の利益が侵害されたと考えれば、後先顧みずに攻撃する。チベットで120人近くが焼身自殺したと言えば、「いつそんなことがあったのか。メディアで報道しない」と驚く。その一方で、他国がチベットの焼身自殺問題を憂慮すると、「内政干渉するな」と反発する。
中国の将来を知るには、指導部の考えと動向も重要だが、若者の変化もよく見なければならない。