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盗作の基準

Posted November. 13, 2013 03:21,   

한국어

大学の先輩が11年前に小さな飲食店を始めた。店の名前がある程度知られると、ある店員が同じメニューで似た店名で店を始めた。3音節の2単語で構成された本来の店名を後ろの単語だけ同じ語感に少し変えた。全国約100の加盟店を持つフランチャイズ企業の社長になった彼に今になって「盗作ではなかったのか」と聞くことは滑稽だ。

先輩は、「この業界ではよくあることだ。あるアイテムが成功すれば、同業者や被雇用者が経験から問題点を補完し、後発走者として独立する」と大したことではないと話した。確かに、週末にも子どもたちのためにあれこれ料理をすることが人生の喜びである彼に、フランチャイズの社長は似合わない。先輩は後日、その会社を訪ねて1つだけ要求した。似ていたエンブレムが数日後に変わっていた。

最近、大衆音楽の市場でしばらく「盗作」が話題となった。冬になると冷たい風が吹くといったように無感覚だった。世論の大勢は「大したことではない…」といった感じだ。関連記事の読者の反応も然り。「記者さん。うんざりする。はっきり盗作とわかってから書いてよ」、「多くの人がその歌で幸せになり楽しめばいい。なぜ邪魔をするのか。人がいい思いをするのが見てられないのか」、「盗作問題で、韓国の音楽市場に名前が知られ、かえって有り難く思うべきではないのか。だからもう問題にしないんじゃないか」

4年前の秋。数週間、ある歌手の盗作疑惑を取材した。彼が出した曲の一部が外国のバンドの曲と非常に似ていたのがきっかけだった。結局、記事は出なかった。その外国のバンドが問題視しない限り、余計なことになるのは明らかだった。

レファレンス。クリシェ。韓国語で十分に表現できるのに強いて外国語を使う理由は、たいてい似ている。「参照」といえば出処を明らかにしなければならないような感じがし、「常套的表現」と言えば味気なく感じられる。ただ参考にして再加工しただけなのか、無意識的に常套的表現を使っただけなのか、それは本人が一番よく分かっている。盗作であろうがなかろうが、最も正確な基準は作った人の心の中にある。

技術コピー時代の絶頂だ。先端技術はどれほどより精巧にコピーして集め、痕跡なく合わせることができるかを競う。皆「空の下に新しいものはない」と言い、真理であるかのようにうなづく。会話よりコラージュが洗練されていると感じる。何であれ盗作かどうかと聞くことはやぼったい。立派に再解釈して再加工し、成功したらそれだけだ、誰が初めて作ったかということは重要ではない。良いものが良いということを分からず、楽しいお祭りムードに盗作云々と冷水を浴びせることは愚かだ。

それでも尋ねたい。基準はまさにあなたの心の中に眠ってはいないのかと、自分でも忘れた心の中のどこかに。