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「黙ったままのアウトサイン28年、もう僕がアウトですね」

「黙ったままのアウトサイン28年、もう僕がアウトですね」

Posted December. 27, 2013 04:23,   

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「前生に罪深い人が審判になるという。厳しくて寂しい職業だが、自負心を持って30年近くこの道を歩んだ。1年に6ヵ月は家に帰られず、贅沢な暮らしもさせられなかったのに、文句も言わずにひたすら支えてくれた妻と家族にありがたいだけだ」

熱烈なファンでも審判の名前まで知るのは難しい。しかし、キム・ゴンテ審判(58)なら話が違う。国家代表センター(190センチ)として活躍したが、難病で手術を受けた後、選手を引退した彼は、一般会社に勤めていたところ、1985年、審判の道に入った。1990年、国際審判の資格を取り、1998年から10年まで国内唯一の国際バレーボール連盟(FIVB)の審判として活躍した。FIVB審判は世界中の約1000人の国際審判の中で、約10人に限って与えられる「審判の中の審判」だ。五輪や世界選手権の主審はFIVB審判にのみ与えられる。彼は11年、「FIVB審判賞」をもらった。「世界最高の審判」と言っても過言ではない。

「07年10月、日本で開かれた女子バレーボールワールドカップ開幕戦の主審を務めた。1セットが終わった後、座っていたが、目の前が真っ暗になった。指をかみちぎって血を流したら、良くなったようだったが、結局、2セットの序盤、気を失って審判台から落ちた。ストレスによる脱水だった。世界各国へ中継される試合だったのに…」

普段、運動に励みながら体力を鍛えてきた彼だったが、身体が過重な仕事に耐え切れなかった。同氏は04年、韓国バレーボール連盟(KOVO)の発足と同時に審判委員長になった。審判教育や配定、評価は言うまでもなく、ローカルルールを作る作業も彼の仕事だった。トリプル・クラウン、ビデオ判読、審判アルコールテスト、再審要請制などは全て彼の作品だ。05〜06シーズンからは直接審判も務めた。倒れて運ばれていった日本の病院で、「このままだと死ぬ」という医者の警告を聞いて、彼は帰国するや否や全ての補職をやめて審判だけを受け持った。

「最も記憶に残る試合は03年スペイン・マドリードで開かれたユーゴスラビアとブラジルのワールドリーグ決勝戦だ。体育館に雲集した観客だけで1万3000人で、世界47カ国に生中継された。ブラジルが最終の5セットでジュース接戦の末31対29で勝利した。ブラジルが21世紀バレーボールの最強に生まれ変わった瞬間だった。国内試合では1995〜96シーズン、スーパーリーグチャンピオン決定戦第4戦が今でも生々しい。張允昌チャン・ユンチャン、ユ・ジュンタクが引退した『ダビデ』の高麗(コリョ)証券が、イム・ドホン、マ・ナクギル、カン・ソンヒョンら超豪華メンバーが揃える『ゴリアテ』の現代(ヒョンデ)自動車を4時間が越えるフルセットの接戦の末に下して優勝した。主審の私が手に汗を握るほどだった」

カップ大会を含めてプロバレーボールで9シーズン間422試合の審判を受け持った彼は、もう最後の423番目の試合を準備している。29日、牙山(アサン)李舜臣(イスンシン)体育館で開かれるウリカード対韓国電力の試合だ。試合開始前にはKOVOが主催する引退式も開かれる予定だ。審判服は脱ぐが、アジアバレーボール連盟の審判委員として15年まで国際審判養成活動は続ける。

「振り返ってみると、残念な気持ちが強い。誤審を減らすために、死に物狂いで努力したが、『ミスゼロ(0)』にはなれなかった。薄給に退職金、年金もない職業だが、後輩の審判がさらに努力してバレーボールの発展に貢献してほしい」

引退を控えたベテラン審判の関心は相変わらずバレーボールだった。