「崇礼門(スンレムン)前の市場が早朝から開かれ/集まった人々の話声が城の向こうから聞こえてくる/かご持って行った小婢が遅いことから/数匹の新鮮な魚を手に入れたのだろう」(茶山・丁若饁の詩「春日棣泉雑詩」から)
ソウル中区(チュンク)にある南大門(ナムデムン)市場は韓国を代表する市場だ。約1万店の店舗が密集し、約1700種類の商品を取り扱い、1日平均の利用客が40万人を上回る。南大門市場には「猫の角以外すべてある」とも言われたほどだ。ソウル歴史博物館は最近、「ソウル生活文化資料調査—南大門市場」を発刊し、南大門市場の歴史にスポットライトを当てた。
南大門(崇礼門)の周辺は朝鮮建国の時から、近隣の鍾路(チョンロ)市廛行廊の影響で大小の市ができていた。本格的な市場の空間になったのは、壬辰倭乱と丙子胡乱の後だった。朝鮮末期、人文地理書「東国與地備考」によると、漢陽(ハンヤン)の場市(正規市場)は4ヵ所。現在の鐘閣周辺の鐘楼街上と鍾路4街付近の梨峴、西小門(ソソムン)の外側の昭義門外、そして南大門の七牌だ。
七牌とは王を護衛した御営庁所属の軍人を指す言葉だ。この警戒所が南大門の近くにあり、南大門市場を七牌場と呼んだ。当時、南大門市場は塩や磁器、わらや萩、竹製品や塩辛類を多く取り扱った。
乱廛(廛人に与えられていた特定商品の独占的取扱い権を破ろうとする行為)が横行していた市場が今の形に定着したのは、1897年、都市近代化事業の1つとして宣恵庁倉庫の場所に倉内場という市場ができてからだ。現在の南大門市場A洞とB洞中間だ。ユン・ナムリュル博物館学芸員は、「毎日明け方に開かれた朝市と区分される近代的な常設市場が初めて誕生した」と説明する。開港直後だったため海外の商人も集まったが、1907年には朝鮮人50%、日本人30%、中国人20%で構成されていた。当時、南大門市場は、市場規模で2位だった東大門(トンデムン)市場より売上高が2.6倍以上多かった。
栄えた市場も日本による植民地支配を避けることはできなかった。朝鮮総督府は1914年、「市場規則」を宣布し、旧式の市場を理由に南大門市場の解体を図った。運命のいたずらか、市場が生き残ったのは親日派の「おかげ」だった。売国奴、宋秉鑭(ソン・ビョンジュン、1858〜1925)が経営する朝鮮農業会社が運営権を取得し、許可の取り消しを阻止したのだ。その代わりに、高額な場所代を取った。その後、南大門市場は日本人の元官僚や経済人が管理し、利権を手に入れた。
光復(植民地支配からの解放)後も苦難は続いた。韓国戦争と約1000の店舗が全焼した1954年の大火災も大変だったが、暴力団組織の明洞派の支流だった「オム・ボクマン派」が商人の膏血を絞り取った。1922年生まれとされるオム・ボクマンは、大火災の時に全国から送られた寄付まで着服した。1957年にソウル市が南大門市場商人連合会に運営権を委譲し、暴力団の時代は幕を下ろした。
その後、南大門市場は「ヤンキー市場」、「おばけ市場」と呼ばれ、発展した。「打ち出の小槌」のように何でも手に入れることができ、取り締まりを素早くかわすことでも有名だ。1967年、東亜(トンア)日報の「横説竪説」は、「外国メディアが(南大門市場を)『悪魔の路地(devil趕s alley)』と訳して紹介した」と伝えた。38度線を越えて韓国に来た「失郷民」の多くが定着し、「アバイ市場」という名前もつけられた。
1968年、南大門市場はまたも火災に遭ったが、素早く回復し、今の姿になった。1980年代には、台所用品や生地、工芸品を売る通りが形成され、専門商店街中心の市場に変わった。ユン学芸員は、「1990年代から通貨危機と東大門市場の成長で浮沈を経験しているが、依然として伝統と影響力を持つ南大門市場は韓国を象徴するアイコンの一つだ」と強調した。