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「清に人質として連れて行かれた昭顕世子、外交官の役割を果たした」

「清に人質として連れて行かれた昭顕世子、外交官の役割を果たした」

Posted August. 26, 2014 04:02,   

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1636年の丙子胡乱の後、清に連れて行かれて人質生活を送った悲運の朝鮮の皇太子、昭顕世子(ソチョンセジャ、1612〜1645)。中国瀋陽の韓国総領事館は22日からの2日間、遼寧省瀋陽で昭顕世子の行動を称える第1回使行団文化祭を開いた。清の首都だった瀋陽は、昭顕世子が人質に捕えられた所だ。

同時に開かれた国際学術祭では、韓国と中国の学者18人が参加し、これまで注目されなかった「外交官昭顕世子」の活動にスポットライトが当てられた。昭顕世子が、清に捕えられた期間は、1637年から1645年までの8年間。このうち、清が明を陥落させた後、遷都された北京で最後の数ヵ月を過ごしたことを除けば、ずっと瀋陽の清の宮廷付近に設けられた瀋陽館(朝鮮館とも呼ばれる)にいた。

昭顕世子の瀋陽館での生活は、敗戦国の王子が甘受しなければならない侮蔑と事大(力の弱い者が力の強い者に要領よくつかえること)だった。しかし昭顕世子は、清に対する朝鮮外交の最前線で外交官としての役割を果たしたことが、瀋陽状啓や瀋陽日記などの文書で確認できる。

昭顕世子は、自分を護衛した宣伝官と禁軍から瀋陽の情報を収集し、朝鮮に伝えた。重要で緊迫した事態が起これば、1日に何度も情報を伝え、早馬を出したこともあった。

一般の外交事案も昭顕世子の仕事だった。当時、清の朝鮮業務を掌握した清の将軍、龍骨大と馬富大は、何度も瀋陽館に来て、歳幣と貢物、軍兵と軍糧の徴発などに対する皇命を伝え、朝鮮を詰った。昭顕世子は、その度に疲弊した朝鮮の状況を説明し、最善を尽くしていると説得した。

今回の学術会議では、昭顕世子が滞在した瀋陽館の旧跡を探すために、学者が現場を訪れた。

これまで瀋河区の瀋陽市立少年児童図書館が瀋陽館の場所と見られていた。しかし、実際に現地調査した結果、ここは清の宮廷があった場所で、瀋陽館の場所と見ることは無理だとされた。このため、旧徳盛門から北に100メートルほど離れ、現在幼稚園がある場所に瀋陽館があったという説が有力になっている。