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病気の朝鮮王もやめられなかった珍味の餃子

病気の朝鮮王もやめられなかった珍味の餃子

Posted July. 13, 2015 07:21,   

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侍医・李時弼(イ・シピル)が、病気の肅宗(スクジョン=朝鮮王朝の第19代王)のために捧げた黄雌鷄餛飩。

朝鮮時代の第19代王の粛宗(1661〜1720)は53歳の時から腹部飽満ができた。王のお腹は徐々に膨らんでくるのに、食べ物をろくに食べることができず、侍医をはじめ、王の健康にかかわる人たちは大騒ぎとなった。

このような粛宗が病気中でも何度もうまそうに食べたのが、侍医李時弼(1657〜1724)が捧げた黄雌鷄餛飩だった。

黄雌鷄餛飩は、元時代に出版された「居家必用事類全集」と明の李チョンが記した「醫學入門」などで、胃腸が悪く、食べ物をろくに食べられない高齢者のための「食治」と紹介されている。「餛飩」とは、栗ぐらいのサイズの皮が紙のように薄い餃子を指す言葉だ。

黄色の羽の雌どりの黄雌鷄の肉を、長ネギと一緒に釜で茹でる。小麦粉で薄く皮を作る。薄く切った肉を醤油やサンショウの粉などで味付けして、餡を作る。餡を皮に載せ、餃子のように作って茹でる。これを1日一回、空き腹に食べれば、臓腑を熱して、顔色が脂っこくなる。

李時弼が粛宗に捧げた「黄雌鷄餛飩」は、やや違う作り方で作られた。まず、餛飩の中に入る餡を作る。黄雌鷄2匹と雉1匹を茹でで切り取った肉と松茸、長ネギ、ニンニクを切り刻んで、油醤油で炒める。これが固まらないように、ひしゃくの頭の部分できちんとつぶした後、味付けをして塩加減をする。皮は、当時はなかなか手にできなかった小麦粉の代わりにそば粉で作る。網目が最も小さなふるいのかけたそば粉を捏ねて、丸い棒で紙のようにうすく伸ばす。サイズを小さくするため、竹の筒で皮を切り取る。この皮に餡を乗せて、沸騰する肉汁にさっとゆでて、食器に盛る。お酢や醤油、ネギ、ニンニクを入れて味付けした肉汁につけて食べる。

食欲を失った粛宗にとって、黄雌鷄餛飩は鶏肉と雉肉、マツタケの味が調和をなしておいしく、サイズもちさかったので食べるのに負担がなかっただろう。

この料理を最初に作った人は、李時弼ではなく、司饔院の倉庫番「庫城上」のポストにいたクォン・タソクだった。司饔院とは、王室の食べ物の供給を担当した部署だ。クォン・タソクは水剌間(王の飲食物を調理するところ)の調理師ではなかったが、この料理をうまく作り、李時弼のはからいで水剌間の正式調理師だった熟手のノクセと朴二乭が、クォン・タソクからこの調理法を学んだ。

「承政院日記」には、粛宗が他界する直前の1719年9月12日、黄雌鷄餛飩を食べたがっていたという言葉が記されている。この時、李時弼は1717年、粛宗が目の病気の治療のため、清に派遣されたが、薬を作るのに失敗し、帰国後の1718年3月22日、島流しをされた状態だった。粛宗が食べたいと口にしたその翌日に捧げた黄雌鷄餛飩は、クォン・タソクから調理法を学んだノクセと朴二乭が作ったものだろう。

李時弼は配所の北駙(ブクチョン)で粛宗の崩御の知らせを耳にした。粛宗は59歳だった1720年6月8日、お腹に腹水が満ちた状態でこの世を去った。李時弼は島流しから解除され、朝鮮飲食はもとより、中国や日本料理のなかで、高齢者に良いものだけを選んで本を作った。その本がほかならぬ「謏聞事說食治方」だ。クォン・タソクが作った黄雌鷄餛飩の調理法もこの本に出ている。

周永河(チュ・ヨンハ)韓国学中央研究院教授