韓国戦争の避難時代、李仲燮(イ・ジュンソプ)は家族と離れて一人で釜山(プサン)に居を構えた。彼は東区凡一洞(トング・ポムイルドン)に住処を求めた後、釜山都心の光復洞(クァンボクドン)と国際市場などを行き来しながら生計を立てて絵を描いた。李仲燮はクムガン喫茶店、ルネサンス喫茶店、ノクウォン喫茶店、ヌルボム喫茶店など光復洞一帯の喫茶店をよく訪れた。絵の具を購入する金が足りなかった彼は、喫茶店でタバコの箱の銀紙に絵を描いた。李仲燮の名作は、このように避難期の釜山の貧しさから生まれた。
◆韓国戦争勃発から2ヵ月後の1950年8月18日から1953年8月15日、政府がソウルに還都する時まで、釜山は大韓民国の臨時首都だった。大統領と官僚政治家、軍人と軍需物資が釜山に集まった。大学も釜山に移り、知識人や芸術家たちは光復洞に集まった。40万人だった釜山人口は、避難期は100万人に達した。国際市場が急激に膨らんだのもこの時期だった。20世紀の釜山の歴史の中で、韓国戦争は極めて重要な時期だった。
◆避難首都釜山の遺産がユネスコ世界遺産の暫定リストに上がった。最近、文化財庁は、釜山市が申請した臨時首都政府庁舎(臨時中央庁)、臨時首都大統領官邸(景武台)、釜山近代歴史館(米大使館)、釜山地方気象庁(国立中央觀象台)、国連記念公園(国連墓地)など8カ所を暫定リストに承認した。朝鮮時代までの遺産ではなく、20世紀の近代遺産がユネスコ世界遺産の暫定リストに上がったのは今回が初めてだ。このうち最も目立った建築物は、光復洞の隣の富民洞(プミンドン)にある臨時首都政府庁舎。1925年に慶尚南道(キョンサンナムド)庁の建物として建てたが、韓国戦争期に臨時政府庁舎として使用された。今は東亜(トンア)大学博物館として使われており、全国博物館の中で最も魅力的な空間の一つに挙げられる。
◆暫定リストは文字通り暫定ある。今後数回の審査関門を経てこそ、韓国候補として最終に選ばれることができる。文化財庁は、「避難民の生活ぶりを反映する遺産を追加して、保存管理計画を策定せよ」という条件をつけた。釜山市が耳を傾けるべき指摘だ。8件の建築物だけではない。避難期の李仲燮の芸術の魂と光復洞の喫茶店をはじめ、文化芸術の痕跡までを記憶する努力を示すべきである。