1日午前11時15分にベネチア・フェニーチェ劇場で開かれた新年の音楽会。1792年にオープンした「不死鳥」という意味のフェニーチェ劇場は、ヴェルディのオペラだけで5つの作品が初演されたオペラの聖地である。今年の新年の音楽会は、東洋人では初めて鄭明勳(チョン・ミョンフン)指揮者が引き受けて、世界の音楽界の注目を集めた。この公演は、イタリア国営放送(RAI)を通じて生中継された。
後半のヴェルディとプッチーニのオペラのハイライトで飾られたたプログラムが終わり、アンコールで、イタリア国歌に準ずるヴェルディの「ナブッコ」に出てくる「ヘブライ人奴隷の合唱」が演奏された。そして鄭明勳指揮者は、「世界の歌の中心地イタリアで、最も美しい都市と最も美しい劇場で新年を迎えるなんて、本当に恵まれた方々です。最も美しい音楽で世界に向け新年の挨拶をお送りします」と新年の挨拶をした。イタリアの大統領とベネチア市長が出席した客席から、雷のような拍手が送られた。
私たちがよく知っているウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年音楽会のアンコールは、「ラデツキー行進曲」である。客席の聴衆は、軍人のように拍子に合わせて楽しく拍手をする曲として有名だ。国内でも7日、KBSでイタリアの指揮者リッカルド・ムーティが指揮した2018ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年音楽会が放送された。例年のように「ラデツキー行進曲」で終わった。ところが、なぜ鄭明勳はフェニーチェ劇場の新年音楽会で、ラデツキー行進曲の代わりナブッコを演奏したのか?
その理由は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年音楽会の起源にある。1939年12月31日、ナチスドイツの支配下にあったオーストリアのウィーンでは、軍人のための労いの公演が行われた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が主催した一種の合併を祝うコンサートだった。団員の半分以上がナチス党に加盟し、ユダヤ人の演奏者6人が強制収容所に送られた後だった。ナチス軍人たちにモーツァルトやベートーベンの深刻な交響曲よりは、娯楽的で刺激的なウィーンワルツがうってつけだった。プログラムは、ヨハン・シュトラウス2世のワルツで埋められた。政治目的のこのイベントは、毎年、全世界の90カ国の4億人以上が視聴するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の新年音楽会の始まりだった。
18世紀後半に胎動したワルツは、男女が上半身を密着した状態で回転しながら踊る輪舞だった。ワルツが欧州全域に広がったのは、1814年からその翌年6月までで、実に9ヶ月間行われたウィーン会議の時だった。ナポレオン戦争の処理のためのウィーン会議は、欧州の主要列強の外交舞台だった。200カ国の代表と随行員たちでウィーンは賑わい、ロビーは毎晩舞踏会が続いた。副作用も多かった。ウィーン会議以降、ウィーンには数多い私生児が生まれた。ベートーベンは不遜なワルツを「ごみ箱にでも入るべき低俗な音楽だ」と悲憤慷慨した。
1870年に統一されるまで、ベネチアをはじめとするイタリア北部は、オーストリアの植民地だった。1848年、ラデツキー将軍が率いるオーストリアの帝国軍は、ヴェルディも積極的に参加したイタリアの独立運動を無慈悲に鎮圧した。ロンバルディア平原を血で染めたラデツキー将軍が、ウィーンに凱旋するとき、ヨハン・シュトラウス1世が捧げた曲がほかならぬ「ラデツキー行進曲」である。
このため、イタリアのフェニーチェ劇場の新年音楽会で、ラデツキー行進曲は「過去の敵国」の音楽としてタブーとなってきた。イタリア人が指揮したウィーン・フィルハーモニー管弦楽男の新年音楽会の代わりに、フェニーチェ劇場の新年音楽会を生中継したRAIに不平を並べたムーティのインタビューは、現在イタリアで議論の種となっている。我々はどうだろう。鄭明勳が指揮したフェニーチェ劇場の歴史的新年音楽会を、KBSは録画中継すらしなかった。数年前、国内代表交響楽団の新年音楽会のアンコールは、「ラデツキー行進曲」だった。外勢侵略の経験を持っている我々にも、「ラデツキー行進曲」よりは「ヘブライジン奴隷の合唱」が感情的により合うのではないか。