「釈迦大士四十九年横説竪説」(釈迦が49年間縦横に説き述べられた。)
「横説竪説」とは、ああだこうだまったく分からないことを並べ立てることだ。しかし、元来の意味は反対だった。縦横自在に分かりやすく、筋の通った説明をすることを意味した。釈迦が仏教を伝播する時、言葉と単語を適切に変えて理解しやすく説明したが、これを「横説竪説」と言ったという。
◆東亜(トンア)日報100号の1920年7月25日付1面に、コラム「横説竪説」が誕生を告げた。最初の一言は「千言万語は横説竪説にすぎない」だったが・・・、すぐ次の文章から燐鉱が光り、竹箆(しっぺい)が振り下ろされる。「ともすれば違反して、印刷機から落ちる新聞紙を山のようにのせて警察署にしょっ引かれ、言論の自由というメッキ広告板が残骸もなく残酷に踏みにじられる」と時代を批判する。3・1運動7周年の祝電掲載で無期停刊を経験した後、「報道機関は停止でなければ禁止」と批判し、執筆記者が懲役8ヵ月を宣告された。しかし、1940年8月、日帝の東亜日報強制廃刊措置で「横説竪説」の口も閉ざされた。「今に見てろ」という一言を残して。
◆1955年1月1日に蘇った「横説竪説」は、李承晩(イ・スンマン)、維新、第5共和国政府にかけて権力に対する風刺と批判を続ける。4・19革命の1960年4月21日付は、「昨日、若い男が銃弾を受けて倒れる凄まじい光景・・ただ泣き声だけが聞こえる。あまりのことに筆も握れない」と書いた。1987年、ソウル大学生、朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君が亡くなって3日後の1月17日付で「朴君の死は元に戻すことはできない」と悲しみ、1ヵ月間ほぼ毎日痛烈な批判を続ける。
◆「横説竪説」は今年で満98歳を迎える国内最長寿コラムだ。しかし、言論の最も重要な評価の基準は歴史の長さではなく精神だ。正確、迅速、公正を期す責任感だ。32年前、発行2万号の時に「横説竪説」はこう書いた。「いくら年を取っても、その精神が回春する新聞こそ長寿を享受する」。「横説竪説」の弁舌は4万号、10万号のその日まで毎日毎日若返るだろう。
李基洪 sechepa@donga.com