徳寿宮(トクスグン)内を散策してみると、石垣道の向かい側の南西の奥深いところに光明門を発見することができる。正面3間、側面2間の大きさで、二軒と八角屋根があるが、門としての役割は失い、内部に水時計と鐘(興天寺銘 銅鍾)など置かれている遺物展示の空間として使われている。
本来この門は大韓帝国高宗皇帝が寝殿に使った咸寧殿の南側に位置し、正門として使われた。しかし1910年の日韓併合後、日本は徳寿宮を勝手に分けて壊した。そして1938年に徳寿宮内部に李王家美術館を開館し、光明門を今の場所に強制的に移し、現在にまで至っている。
80年の間、場違いな空間に放置された光明門が本来の場所に戻る。文化財庁は文化財界の要人100人余りと共に19日、光明門の前で、「徳寿宮光明門移転」起工式を行い、光明門移転の工事を始めると明らかにした。これに先立ち2016年、咸寧殿南側の区域で行われた発掘調査で、光明門の配置状態と平面形態などが同じ建物址1棟であることを確認した。これをもとに文化財庁は年末までに光明門の移転を完了する計画だ。
光明門の内部にあった昌慶宮(チャンギョングン)の水時計(国宝第229号)と神機箭は大田(テジョン)国立文化財研究所文化財保存科学センターに、興天寺銘 銅鍾(宝物第1460号)は景福宮(キョンボククン)の闕内各司址の一時処理場に移され、保存処理される予定だ。
光明門の移転と共に惇徳殿、璿源殿など徳寿宮の復元事業も本格化する。惇徳殿は1902年、高宗即位40年を迎えて洋式宴会場として建てられた建物で、1907年に純宋が即位したところだ。しかし、純宋が住まいを昌徳宮に移した後、徳寿宮公園化事業が進み、歴史の中に消えた。王の御真影を奉安した璿源殿は、高宗が逝去した後に取り壊され、光復(解放)後には京畿女子高校ができ、最近では在韓米国大使館に譲渡された。韓国に所有権が戻ったのは2011年。
文化財庁は、「惇徳殿は2021年、璿源殿は2038年までに段階的に復元を推進する計画」とし、「日本によって変形・歪曲された宮廷の地位を回復し、大韓帝国のアイデンティティを確立する契機にする」と明らかにした。
柳原模 onemore@donga.com