1419年7月11日、戦艦200隻あまりと兵士1万7285人が巨済島から出航した。目的地は倭寇の巣窟である対馬だった。倭寇が全て対馬に住んでいるわけではない。諸島と海岸地域に散らばっていた倭寇は朝鮮に渡るためには対馬に集まった。最適の中間集結地点であった。対馬の島主は倭寇に通過税金も取り、交易も行った。彼らを優待したのだ。我が国は高麗末期から倭寇問題で苦しめられていた。水軍を育成し、強力なな反撃を行いつつ、戦果をあげたものの、倭寇の勢いは止まらなかった。
上王であった太宗は「いつまでやられてばかりいるのか」と対馬の攻撃を命じた。朝鮮の艦隊が現れるや対馬の住民は茫然自失とした。彼らは家と村を捨てて山に逃げた。朝鮮は易々と港を占領し、村も船も燃やした。現代の視点からすれば敵と民間人を区別しない焦土化作戦だ。しかし、当時の戦争では当然の戦術と見做された。
作戦は成功したものの、誰かがこのような意見をした。「我々は空っぽの村ばかり掃討している。敵は山奥に隠れている。彼らを攻撃しなければ戦闘を回避したという非難を浴びることはないだろうか」。このようなことから始まった攻撃は大失敗に終わった。狭い谷間で朝鮮軍は奇襲を受け、敗れ逃げた。筆者は現地に出向いたことがある。そういうアクセスをしては勝利が得られないような地形だった。だからと言って、それは現地の指揮官の過ちだったろうか。朝鮮王朝実録を読むと、書物の上でのみ戦争を習った書生たちを非難する文章を度々見かける。そのおかげで功を奏した武将は評価されず、現場でも信念を持って陣頭指揮をとることができなかった。信念を持って指揮をとった人は屈辱にあう。対馬を征伐した武臣イ・ジョンムも帰国後、些細なことで揚げ足を取られ島に流されて死んだ。民主社会において世論は大事だだが、世論にも自らの領域と役割がある。感情的な世論が専門家をまかし、非専門家が専門家のふりをする社会は正しい道を歩むことはできない。対馬で戦死した兵士たちは指揮官を恨んだだろうか。否、そのような指揮官にしてしまった世を恨んではいないだろうか。
歴史学者