攻撃こそ最善の防御だ。守備は攻撃の始まりだ。両方のうちどちらのほうが正しい言葉なのだろうか?両方とも正しい言葉だが、いざ戦術を決定しなければならない人の立場では戸惑うことになる。攻撃と守備のどちらが優先なのか?戦争史の中でこれほど長く、答えにくい論争はないだろう。戦争ではなく、サッカーを見ても、ワールドカップの優勝チームによって攻撃サッカーと守備サッカーの傾向が変わる。まだ正解はないが、この論争は、人がよく犯す重大なエラーを知らせた。攻撃戦略だからといって防御を無視し、防御戦略といって攻撃を軽視してはならないということだ。
高麗末だった14世紀後半、倭寇の侵入が急増した。高麗は海岸防御を強化しようとしたが、兵力を分散すれば、倭寇が攻撃して各個撃破した。兵力を一箇所に集めると、守備隊がないところに上陸して略奪した。政府軍の無能に耐えかねた若い学士の李穡(イ・セク)が恭愍(コンミン)王に上疏した。倭寇は海で動きながら、チャンスを窺っているのに、陸だけを守る防御戦術では効果がない。倭寇を掃討するためには、海軍を育成して海に出て、倭寇を探して掃討しなければならないという内容だった。この戦略を海で守るという意味で海防論という。高麗がこの戦略を採用したことで、初めて倭寇の被害を減らすことができるようになった。
防御だけでは防御に成功できない。攻撃で敵の攻撃力を弱体化させ、敵に主導権を与えてないでこそ、防御に成功できる。防御は決して攻撃を去勢した状態を意味しない。私たちは、他国を侵略しない。韓国軍はひたすら国土防衛のために存在するからといって、攻撃戦術と攻撃能力を除去すれば、それは攻撃能力ではなく、防御能力まで無力化させてしまうのだ。攻撃用武器を除去するというのもナンセンスだ。槍は攻撃武器で、鎧と盾は防御用武器だ。しかし、それが攻撃と防御能力を代表してはいない。攻撃するために鎧と盾を捨てて、槍だけ持っていくのか?防衛戦をするときは、槍を捨てて鎧と盾だけを着用するのか?最近、韓国社会でこのようなことが起きている。気になるのではなく、呆気にとられるばかりだ。
歴史学者