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実利外交

Posted September. 11, 2018 07:43,   

Updated September. 11, 2018 07:43

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「この土地は、もともと私たちの領土である」

18世紀に欧州で起きた7年戦争(1756~1763年)は、シュレジエンの領有権が引き金となった。フランスとドイツのアルザス紛争と「奪われたチェコを取り戻そう」というドイツの念願は、第1、第2次世界大戦を引き起こした。パレスチナの本当の所有者が誰かという問題は、現在まで中東では論争の種となっている。本当に領土回復が目的の戦争もあるが、はるか昔の所有権論争は、よく戦争の名分に使われる。993年、徐熙(ソ・ヒ)と蕭遜寧の会談でもそうだった。契丹の蕭遜寧は、高麗(コリョ)は新羅(シルラ)の末裔だから、新羅の昔の地に満足すべきだと主張した。徐熙は、高麗は高句麗(コグリョ)の子孫であり、昔からの所有権を突き詰めれば、あなたたちの首都も私たちの土地だと切り返した。蕭遜寧は撤退し、義州(ウィジュから)鉄山(チョルサン)、宣川(ソンチョン)などの平安北道(ピョンアンブクド)地域の江東6州を高麗の領土と認めた。徐熙の外交術は今も実利外交として賛辞を受けている。

しかし、子孫たちは全く実利的ではなかった。そもそも実利外交の意味合いについてもそうだ。徐熙の外交を見倣えと主張する人たちは、損害より利益が多いときに手つかずで問題を解決することを実利外交と理解しているようだ。決してそうではない。実利とは、大儀名分と貸借対照表に縛られないで、現実において自身が手にできる最高の利益を追求する態度だ。自身が50を与えて100を得ることだけが実利ではない。自身に必ず必要で長期的に利益があれば1を得て100を与えても良いとする態度こそが実利なのだ。

実利を得る方法についても誤解してきた。世界中のどこの軍隊が「ここはもともと私たちの領土だ」と言われて、そのまま帰るだろうか?最初から継承をめぐる論争は形式的な理屈に過ぎなかった。徐熙は、契丹の攻撃戦略が「先に女眞、後で高麗」だと見抜き、契丹の女眞攻撃を手伝うという餌を投げたのだ。蕭遜寧が引き返すと、徐熙は契丹と挟撃して女眞を追い出し、すぐに江東6州に城を築いて契丹の侵入に備えた。実利とは、冷静を保ちながら手段に大儀名分や自尊心といった意味付けしない態度だ。しかし、我々はそれができなかったし、今もそうだ。政府や知識人は、このような態度で説得するどころか、大儀名分を前面に出して過去と政策を批判しては、自分を繕うことに余念がない。徐熙の魂があるのなら、「教科書から私のことを外せ」と言い出したことだろう。

歴史学者