人々はよく尋ねる。どんな詩がいい詩かと。正解はない。「いい」の答えがあれば、それはいいものではない。いいから、かえって答えとか、その理由を探すのである。それでも人々が再び尋ねるなら、こう答えたい。まるで自分のことを書いたかのように身近に感じられたらいい詩だと。例えば、ポク・ヒョグン詩人の「かぼちゃの切干」を読んで、自分のかぼちゃの切干と母を連想すれば、この詩は、彼にとってはいい詩といえる。
カボチャをカットしたり、スライスして干したものを「かぼちゃの切干」という。これはありふれたものなのに、使わうところの多い食材だ。干し物はもどして和えて食べたり、味噌汁にも入れて食べる。母はいつも余るほどくれるのに、子はいつもちゃんと食事ができないので、かぼちゃの切干は使われなかったようだ。カビの生えたかぼちゃの切干を発見して、詩人は急いで調理を始める。母がくれたものだから、買うものとは到底換えることのできない貴重な食べ物だ。
我が家のベランダにもそのかぼちゃの切干がある。それもうちの母のごつい手が切り、うちの母の家の日差しが干したものである。ご存知かと思うが、かぼちゃの切干の実体とは、まさに母の心である。その心は、高速バスに乗って来て、この時までベランダにぶら下がっている。詩人がそうであったように、毎年かぼちゃの切干を受け取ることができるように、私も長く願っている。このようにこの詩は、ポク・ヒョグン詩人の詩でありながら私の詩になる。それだけではない。あなたの記憶の中に、あるいは心の中にかぼちゃの切干があるなら、この詩はほかならぬあなたの詩でもある。
文学評論家